自己想起

災いは起こり始めると
立て続けに起こり続ける。

それはその元凶となるものが
見出されていないからだ。

そしてその災いの源とはマーヤである。
マーヤが全てを引き起こすのだ。

ボタンのかけ違いのように、
マーヤによって誤った認識を持つ事から始まる。

ひとつめのボタンが誤ってかけられると、
最後の最後まで狂いづける。

故に、しっくりしない出来事が続くなら
まず、どこからおかしくなったのかを思い出さなければならない。

自己想起をする事。
マーヤを見つけ初めの狂いを正す事。

そうすれば、厄介な出来事は
終焉するはずである。








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# by mikokoro-org | 2017-12-21 00:39

固定観念

マーヤを見つけるのは難しい。

なぜならば、マーヤ解きを知る前の自分はマーヤだからである。

今までの自分の全てをマーヤとして捉え
1から思考パターンを構築しなければならない。

過去の思考の全てをマーヤとして見る事が出来れば、
マーヤ解きを始めることができる。

我々の思考は条件付け、固定観念の塊である。
それはマーヤ以外のなにものでもない。

我々は過去に思考しているつもりであったものの、
それは思考というよりも固定観念である。

固定観念に出来事を当てはめるという
作業をひたすら行ってきたにすぎない。

故に自分の固定観念に当てはまらない出来事が生じると
思考はフリーズし自分自身を固定観念に当てはまらない落伍者と捉える。

こうして後悔と罪という認識が蓄積されて行く。
しかしこれはマーヤというものを知らぬ事より生じる無知である。

もし、我々が固定観念を持たぬならば
自由に思考する事ができる。

予想しない出来事に見舞われたとしても
あるがままに物事を見る事ができる。

我々は自己の思考に住み着く固定観念という魔物を
取り払わなければならない。

こうしてマーヤが解かれるならば
我々は自由を手に入れる事が出来る。










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# by mikokoro-org | 2017-12-19 00:32

理由

全ての出来事には起こる理由がある。

もし、そのように見えないならば、

物の見方を見直す必要がある。

見る角度が変われば

誰でも理由を見つける事ができる。

それが人生の目的だからである。


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# by mikokoro-org | 2017-12-13 01:00

過去

過去に撮られた写真を見るように

過去の瞬間に神の愛と祝福を見る事ができるなら

今ここにある神を見る事ができる。

神とは全ての時に渡って存在している。

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# by mikokoro-org | 2017-12-09 00:19

計画

マーヤの力によって
私達は自分が生きているという
錯覚に陥る。

1秒1秒が進む毎に
神の計画が進行している。
私達は何の行為もしていない。

私達の1秒1秒は全て神の計画である。

凡ゆる出来事は神の内にある。

私達が向き合わなければならないのは
マーヤが無い自分である。

そうすれば神が明らかになる。

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# by mikokoro-org | 2017-12-08 23:42

神という言葉

神と言う言葉の定義は曖昧である。

ひとまずそれらしきものとして解釈すること。

その上で敢えて神と呼ぶ。

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# by mikokoro-org | 2017-12-01 00:41

神への愛

人生においてなによりも勝ること。

それは何よりも神を愛していること。
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# by mikokoro-org | 2017-12-01 00:38

祈りの行為

精神の世界とは目に見えない世界だ。
目に見えないという事は把捉出来ない事も
沢山存在しているという事だ。

全てはみこころを前提としてであるが。

目に見えないという事は
なにがオッケーでなにがオッケーでないのか
我々に計り知ることが出来ない。

知らぬ間にしてはならぬ事をしでかしたり
見てはならぬものを喜んだり
喜んではならぬものを好んだり

我々に知る事の出来ないトラップが
其処彼処に溢れかえっている。

ここで、ひとつはっきりしている事がある。
人は知らず知らずのうちに罪を犯すものだから
懺悔を行えと全ての宗教が説く。

全ての宗教が説くこの懺悔は
自然発生的に全ての宗教に生じた。
何故ならば必要不可欠だからだ。

罪を犯す気で犯すなら
それは確信犯であり、
例えその罪が償え無くても
自らが望んだ罪故に許されなくても後悔は無いはずだ。

この罪を償うには相当プロフェッショナルな償いの行が必要になる。
しかし、これは今の話しではない。

今問題としているのは罪の意識無くして
罪を犯した場合だ。
これらの罪は自らの内に蓄積され
自らを剋する事となる。

 軽い罪ではあるものの
蓄積されればそのエネルギーも大きくなる。
この為に為されなければならない事がある。

懺悔は出来ない。
犯した罪に気付いてないからである。

我々が為さなければならないのは
真面目に日々祈る事である。

跪き手を合わせる行為である。
己の神に祈る事。

宗教では無く
己の神を真摯に信仰し
祈りという行為を行う者はエネルギーが軽快になる。

瞑想とて同じことである。

行為として行う事に意味がある。
まあ、これもみこころであるので
出来るか出来ないかはそれ次第である。

誰でも歌って踊る事は出来る。
しかし正しい訓練を受けた者だけが
プロになれるように

信仰のあり方というのも
正しい訓練が必要なのだ。

それはこの世界の必然性である。
何事も一朝一夕には成し遂げられない。

信仰も毎日一歩一歩積み重ねていくものである。

悟りの為にこれらは関係ないかも知れない。
しかし、神が望む事はハッキリしている。

我々は祈らなければならない。











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# by mikokoro-org | 2017-12-01 00:06

人とは生きていても愛

死してもなお愛

人は愛故に生き

愛故に死んで行く

我々が経験すべき事は

愛以外何も無い

この宇宙には愛しか存在していない。


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# by mikokoro-org | 2017-11-30 09:27

必然性

必然性に愛が加わると
みこころとなる。

ただ必然的なだけでは
人は救われない。

しかしみこころは人を救う。
そこには愛があるからである。

人間とはすべからく
愛を求める。

みこころに於ける愛は
究極の愛であり我々が求めるすべてがそこに在る。

ただ全てが決まっているというよりも
全ては神の愛によっている。

その愛が完璧である為には
必然性が無くてはならない。

神が完璧であるからこそ、
愛も、そして出来事も

完璧なのである。







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# by mikokoro-org | 2017-11-28 00:30