お茶の時間

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待ち時間の間、お茶を飲んでいると、調和が訪れてきた。
ただ、静かに座っているだけで、それは訪れてくる。
調和は一切のマーヤを超えた所にあり、静けさと力強さを湛え、無知を退ける。
この恩寵は与えられるものであり、こちらから近づくことは出来ない。かろうじて、それがやって来るのをセッティングして待つことだけである。
瞑想することもまた違う。
瞑想を試みるなら、試みている時点で、多くの作為がマーヤによって起こってしまう。
あくまでも、「しないことをする」ということ。
調和はあらゆる人の作為を超えており、それは必然的なものである。
それは自然で、本来的である。
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# by mikokoro-org | 2013-08-07 16:54

魔法とは言葉である。

私達は普段何の気なしに言葉を発していますが、私達が普段使う言葉というのは、マーヤを基本にしたものです。
私達は子供の頃に、言葉を憶えますが、言葉を憶えていくプロセスそのものがマーヤに基づいています。
この世界のことを理解し、学び、また表現するということは、このマーヤの世界で生きていく為に必要なことですが、その集積によって形成されている私達の言語感覚というのはマーヤに他ならないのです。
故に思考が問題なのではなく、その根底に横たわっているマーヤこそが問題なのです。

しかし、それとは違う言葉が存在しています。
これは叡智とも魔法とも呼ばれる言葉です。
それは、頭で考えることなく、一切の思考を通さず、やって来るもの。与えられるものです。
この様にして与えられた言葉は私達の支配下におかれます。
普通使っているマーヤ界の言葉は私達を支配していますが、このように与えられた言葉は逆に私達が支配出来るようになるのです。
その言葉に秘められた能力を最大限に使う事が出来るのです。場合によっては現実世界をも支配するようになります。魔法の言葉によって奇跡を起こす事で知られる魔法使いは、この言葉の支配を完全に成し遂げているということです。故に、魔法とは言葉であると昔から言われているのです。
そして、これを得る為に、昔から、聖天を読誦、誦唱してきたのです。
これによって、その言葉が指し示す意味。目的が魂的に理解出来るのです。
しかし、これにも段階があり、究極的な理解というのが存在しており、その理解こそが、私が今ここに伝えようとしていることです。
そして、この究極的な理解こそが、私達の人生を一変することになる力を持つのです。
では、それを得る為に私達には一体何ができるのでしょうか?
それは恩寵としか言いようがありません。ただ、それが起こるのをひたすら待つしかないのです。
その、待つという行為を指し示す言葉。それが修行です。
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# by mikokoro-org | 2013-08-06 00:12

夕暮れ時

夕暮れ時に静かに調和が訪れた。
それは大きな喜びを伴っていた。
あらゆるものが、完璧に在るべき場所に存在していた。
調和は常に全てを一新し、輝かし、在るべき姿を明らかにさせる。
その日々の経験の美しさの経験こそが、理屈でない真の在り様である。
講話にしても、本にしても、それは私達をその入口までは導いてくれる。
それは確かに大きな恩寵なのだが、そこから先は自らが経験していかなければならない部分である。
私達が必要としているもの。
それは知識ではない。何故ならば、知識が私達を満たしてくれることはない。昔は、私も本を読んだが、それはなにも満たしてくれることはなかった。
私達が求めているものは何か?
それは間違いなく、自分の経験である。それがなければ、何も変わることはない。
人と、シェアーできないかもしれないし、出来るかもしれない。
しかし、それは関係ないことだ。
私達が求めているのは、理屈では無く、真に自らが変わる事ができる何かなのだ。
それこそが、正に求められるべきものであり、自らにとってのただひとつの答えなのだ。
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# by mikokoro-org | 2013-07-27 00:10

これはコップです。

言葉というものはなかなか難しく、伝わりにくいものです。
私達人間は、言葉の指し示す意味を先入観をもって見てしまう為にこのようなことになるのだと思います。
例えば、ここにコップがあるとして、私達はそれがコップであることを疑いはしません。しかし、そのコップが陶器なのか、磁器なのか、ホーローなのかプラスチックなのかで、受け取る側の印象は大きく変わります。その先入観込み込みで、私達は言葉を理解する為に、ありのままに物事を受け取れなくなってしまうのです。
本題に入りましょう。
神という言葉があります。
この言葉は目で見ることが出来ない神というものを指し示す言葉である為、人それぞれの認識は全くの別物です。
人類ひとりひとり全く違うと言っても過言ではないかもしれません。一応、各宗教などでは、その認識を統一する為にその姿を絵に描いたり、性格を述べたりして、なるべく皆の認識を近づけようという努力はしてきましたが、それでも難しいものだと思います。
それほどまでに人間の頭の中の思考というものは千差万別なのです。国家を作っていくというのは、さらに難しいことです。
よく、ホンネで語ろうよ。などと言いますが、ホンネで語ったとしても、聞く側が違った解釈をするわけですから、まずホンネは伝わらない。ということです。
故に、この伝わらない言葉を使って更に伝わらない事を話すというのは更に更に難しいことです。
例えば、真我という言葉があります。これは、アートマンという言葉の日本語訳ですが、そもそもアートマンが何なのかをわかっている人はいないので、その言葉の意味を勝手に解釈して
、またはわからないまま、進んでいます。これは、先程述べた神という言葉以上に難しい言葉なので仕方が無い事です。
何故ならば、この真我という言葉はあらゆる形象を超越しており、更には、神といった言葉のように方便的な認識の統一化がなされていないからです。そもそも、方便的な認識の統一化を行えばアートマンを表現する事と逆になってしまうわけです。
ブッダの無我説も様々な論議がされていますが、私的には、言葉によって表現不可能なアートマン(真我)をアナートマン(無我)と言ったという説が気に入っています。決してアートマンが無い。と、言った訳ではないという事ですね。
以上のように見てきても、真我という言葉を知らない私達からすれば、真我を理解することは難しく、わからなければわからないという代表格の言葉だと思います。
いずれにしても、これらは言葉によって表現できる事ではないのですが、最初に述べたように、人間とはそもそも皆、認識が違うわけですから、その辺は更に難しくなってくるとも言えるとともに、私が以上に述べた事で更に簡単になる人もいるはずです。認識の統一化は限りなく不可能に近いということです。
という事は、伝わらなくてもオッケーだという事ですし、私達ひとりひとりの考え方は個性なのですから、これまたオッケーということになります。
いずれにしても、言葉には限界があるということを理解しなければならないということです。
「あ〜。この人こんな事言ってるんだ〜。」では無く、
「あ〜。この人の言っている事を私はこう理解した。」と、自分の理解の仕方。を常に客観的に見ておくことが大切なのです。
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# by mikokoro-org | 2013-07-24 23:16

桃!

岡山から弟が育てた桃が届きました。
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私が6月に行った時はこんなんだったのが、
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こんなんになりました。
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素晴らしい出来栄えですな。
またもう少しすると違う品種のが収穫を迎えるということで、そちらも楽しみです。
今年の桃はとっても甘いらしいので、私もこれから食べるのが楽しみです!
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# by mikokoro-org | 2013-07-24 09:39

母性

今日、山道を走っていると、あの調和が突然やってきました。
それは全てを飲み込み、生きとし生けるもの全てをその輝きでみたし、あらゆるものが生き生きと輝いていました。

私達は全ての生命の源によって生かされています。それを私は母と呼んでいます。私達を生かし、自然界の一切の創造の磁力となるもの。
全てはこの母性によって展開しているということです。
私達が生きているという事は、母性の為せる技に他ならず、生命への感謝とは母への感謝に他ならないのです。
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# by mikokoro-org | 2013-07-22 19:53

夕方との調和

最近、夕方になるとひぐらしが鳴いている。
その声に耳を澄ましていると、絶妙なる調和の状態が訪れてくる。
ゆっくりと暮れなずむ空と景色。そして、ひぐらしの声。
この絶妙なる地球のバランス。美しすぎる自然。これほどまでに美しく完璧なる世界を誰に創造することができようか。
このあまりの完璧さの前で、私達は言葉を無くす。
私達にとって当たり前のように展開しているこの世界がどれほどの奇跡によって成立しているか考えた事があるだろうか?この創造は凄すぎるのだ。

そして、時はゆっくりと流れ、次第に夜のしじまが辺りを完全に支配していく。
このひとつのドラマが展開している間、調和が存在し、全ては完璧となる。
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# by mikokoro-org | 2013-07-19 23:44

耳なし芳一‼

ここの所、涼しいですね。
私は、今日の夕方畑に出て雑草取りをしていました。とても涼しくて快適に草取りをしていたのですが、なんとブヨに刺されてしまいました。しかも耳‼
夕方の畑はブヨだらけなので充分注意していたのですが、耳だけ虫除けをしていなかったせいでまんまと耳を持っていかれてしまいました‼
昔なつかしい耳なし芳一の話を思い出してしまいました。
耳なし芳一は子供の頃よく読んでもらった話です。あまりにも有名な話しなので、説明の必要もないと思いますが、簡単に書くと、琵琶法師の芳一が平家の落ち武者に命を狙われるという怪談です。全身に経文を書いて命を取られないようにプロテクトするのですが、耳だけ、経文を書き忘れた為に、耳だけ持っていかれるという内容です。
以前、私の知り合いの琵琶法師の方からお寺などで夜、平家物語を演奏すると、風がざわめき明らかに異様な空気が立ち現れてくるという話しを聞いたことがあるのですが、平家物語のストーリーもさることながら、琵琶そのものが持つ音色の特異せいも凄まじいものがあります。異界のものを呼び寄せる力と言いましょうか。なんといいましょうかね。
そういう意味では、この耳なし芳一の物語は異様という意味で抜群の設定になってますね。
というか、耳ってプロテクトするの忘れるんですね。
と、耳を喰われてそんな事を思いました。
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# by mikokoro-org | 2013-07-16 23:51

瞑想の基本

瞑想の基本は、アジュニャーチャクラへの(眉間)集中から始まります。勿論、流派によって諸説あるとは思います。
私が学んだタントラヨーガでは、ここから始めます。本来、アジュニャーは第六チャクラで、人体上では最上位のチャクラになります。頭頂サハスララは頭の上の空間に存在しているため、私の流派では、人体上にはとらえていません。
人体上最上位のチャクラであるということは、覚醒させる事が難しいと考えられますが、ここから始めるには訳があります。アジュニャーとは、命令を意味しており、アジュニャーが活性化することで、身体と心と言葉や、エネルギーなどをコントロールしやすくさせる為、危険度が軽くなるということなのです。
ここで、面白いのが最近の脳科学の世界では、鼻で呼吸をすると、前頭葉が活性化されるという研究報告がなされていることです。前頭葉とは、勿論インドでは、アジュニャーチャクラとして知られています。
瞑想の際に、鼻で呼吸するというのも瞑想の基本です。
さらに、舌を口蓋に付け、シャンブハビムドラーという眉間を凝視するテクニックを使うことで、より、前頭葉を活性化する事が出来るのです。
これらの大昔から伝わる脳の活性方法が、今、証明されてきているというのは実に面白い事ですね。
要は、あらゆる注意力を上へ上へと、向けるという事が重要だということです。
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# by mikokoro-org | 2013-07-14 10:06

チベット高気圧

毎日暑いですね〜

この暑さはチベット高気圧のせいらしいですね。チベット高気圧という言葉自体、聞くのは始めてでしたが、チベットの空が日本上空を覆ってこんなに暑いなんて、不思議な感じがします。

阿弥陀来迎図という仏画があります。
西の空の極楽浄土から虹色の雲に乗って眷属を伴った阿弥陀さんが、お迎えにおりて来るという図柄ですが、その様なイメージが私はします。
暑くなるのはちょっと困りものですが、チベット高気圧は阿弥陀来迎図の世界なのかもしれないですね。
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# by mikokoro-org | 2013-07-13 00:09