これは、二元的な次元の話なので、一元論的な捉え方をすれば、マーヤなのですが、(だから、マハーマーヤなんですが…)だからと言って、否定されるべきものではありません。否定とは、唯、その経験をしていないだけです。これは何にでも言える事です。
肯定も否定も、第三者の単なる反応にしかすぎません。同意するのか、しないのか。それは、個々の経験の問題です。
この、マザーもしくは母性。これを経験して、教えた人はそう多くありません。
有名なところではラーマクリシュナが、代表的です。
タントラの世界では、マザーという存在は当たり前すぎるほど当たり前なのですが、表現が難しく、どうしても女神の様な印象になってしまいます。もちろん、女神もマザーの部分です。しかし、マザーとはもっと普遍的な母性であり、この宇宙のあらゆるところに遍在している創造の源です。
マザーが存在しなければ何も生まれてきません。宇宙そのものも存在し得なくなります。
宇宙意識と言われるものはこのマザーなのだと私は理解しています。
神、絶対者とは、宇宙が生じるより以前から存在し、それは生じる事も、また滅する事も無い存在です。ですから、神は宇宙をも超えている存在です。
そして、マザーはその絶対者の部分であり、かつ、この宇宙の部分でもあり、一元と二元の両方にまたがって存在していると言えます。創造する側とされる側という矛盾した次元に存在しているのです。しかし、この矛盾こそが、リアルなものであり、一貫性とは脳が求める理解でしかありません。
どちらともつかない矛盾が全てに浸透しており、それは、無惨にも我々の脳を混乱に陥れます。故に、そこからの解放を求め、一貫性による理解を得たがるのが人間です。
白か黒かなのではなく、シマウマです。
と、マザーの話をすればこのように、人によっては、どうしてもマーヤ的な表現から逃れる事は出来なくなってしまいますが、それは唯単に脳の問題です。
ラーマクリシュナも教えのなかで、マザーはこの一元と二元にまたがってるからこそ、マザーへの帰依は、神への最短の道だと説いています。私もそのように思います。
しかし、これはあくまでも個人的な問題なので、人間は千差万別、個々に定まった道筋というのがありますから、これが絶対ということはありません。
かく言う私とて、初めからマザーに帰依していたわけではありません。それどころか神様すらありませんでした。チベットで仏教の修行をしていた訳ですから、目指すところは空性の理解でした。しかし、図らずも、神様やマザーが現れてしまった訳ですから、全く予想はつきません。結局、わかるべきことがわかり、わからなくて良いことはわからなくて良いのです。
これらは、全て大いなる意志の思し召しです。
なので、今私がマザーについて書いているからといって、それを無理矢理受け入れなけばならないということはありません。そのように考えればマーヤになってしまいます。こういう捉え方も存在するのだと、理解してもらえれば良いわけです。
しかし、この母性という絶対的な愛を、もしあなたが持っているならば話は別です。
この愛にフォーカスするならば、その恩恵は計り知れません。
もはや、あなたは世界は母性、愛以外のなにものでもないということを理解するはずです。
故に、マザーに帰依する機会をこの人生に与えてもらった人にとっては、それが祝福であり、マザー自身の存在証明なのだと私は思います。
▲ by mikokoro-org | 2013-12-27 01:08