私は在る。
失神とは、神を失うことである。
神を失うと、私を失う。
この経験は私達に私が無くなるということを教えてくれる。
普段は起きていても、眠っていても、
私はあり続ける。
例えば、6時間眠ると、6時間眠った感覚がちゃんとある。
しかし、失神すると、6時間が完全に失われる。
まさに、私が無くなる経験である。
失神を体験した事のある者は、
完全なる無というものを経験する。
逆に、その無を経験することで、
在るという経験をするのだ。
起きていても寝ていても、
私が在り続けているという経験である。
私達の体を部屋にたとえるならば、
部屋は体であり、
意識は電気の灯りである。
私達は夜灯りの元で、
本を読んだり、食事をしたりと、
様々な活動をする。
同じように、私達はこの体と、意識の元で、
様々な考えを行い、妄想に耽る。
しかし、いかなる思考活動も体と意識有ってのものである。
瞑想とは、その思考活動の背後に常に存在している
私という意識に目覚めていることである。
瞑想の初心者は、瞑想を通して思考を追い払おうとする。
故に、瞑想は失敗に終わる。
瞑想とは意識へのフォーカスである。
意識は表面の思考などの活動とは無縁である。
薄暗い部屋で本を読む時に、
暗いな。と、電気の明るさを意識しながら読む様に、
様々な思考があったとしても、
意識そのものにフォーカスすることは出来る。
それが、私が在るということである。
瞑想とは思考を追いやる事ではなく、
意識にフォーカスし、思考を放っておく事である。
このあるがままの状態に気付いている事というのが瞑想であり、
実現するべき自己はすでに実現されているという
自己の実現へと導いてくれる。
そして、存在の源はこの経験によって知られることとなる。
この段階まで来ると、もはや知るべき事は無くなる。
私の存在、そして出来事は全て、
この私に依るものではなく、
絶対的なものに依拠しているのだと。
そこに、一切の迷妄は存在していない。
by mikokoro-org | 2017-05-10 23:32