マーヤとは

仏陀にはシタール弾きの弟子がいました。ある時、その弟子が上手く瞑想が出来ないと師に相談すると、仏陀は、
「あなたはシタールを弾く時、弦をどの様に張りますか?」
と、尋ねました。そこで弟子は
「強くも緩くも無く張ります」と、答えると、仏陀は
「瞑想も同じ事です。心を張りつめ過ぎず、緩ませすぎずです。」
と、返答したという話があります。
これは瞑想に関しての問答ですが、マーヤも同じ事です。強過ぎてもマーヤになるし、緩め過ぎてもマーヤになります。
激しい修行をしても、また修行を怠っていてもマーヤになります。
修行をしなければ、しないから成長しないとマーヤになり、修行をすれば、なんでこんなにやってるのに成果が出ないのかと、マーヤになります。
それは因果の法則にとらわれてしまうからです。人間で行為に対する結果を求めない者は殆どいないからです。
よって、どちらにしてもマーヤになります。程よく、強過ぎず弱過ぎずが、大切なのです。
また、さらにひとつ例えると、金銭苦で悩んでいる時に、全ては空性で、金銭苦は存在しない。と、念じたところで、金銭苦は無くなりません。ですから、このやり方をする限り、マーヤになります。しかし、人によっては、マーヤにならないかもしれません。
さて、ここからが本題です。
マーヤとは、意識の正しくない状態を意味します。よって、正しくない方法は必ずマーヤになります。そして、何が正しくて、何が正しく無いのかは、人によっても、またその時によっても変わります。大切なのは、自分にとって正しい状態であることです。何が正攻法なのか?ではなく、今、何がマーヤで無い状態で、何を求められているのかです。
この世界に絶対はありません。ですから、状態は刻々と変化しているのです。
但し、絶対者の被造物である世界であるという観点からすれば、絶対なる者が造った世界は絶対です。絶対なる者に絶対でないものを創る事は出来ません。
さらに付け加えるならば、絶対者が絶対でないものを意図して創ったとて、それは絶対になってしまうのです。
よって、マーヤというのも絶対という呪縛から逃れることはできません。
マーヤとて絶対的な無知なのです。
その様に理解することで、マーヤを解くことができます。何故ならば、答えが存在しないということは無いからです。
絶対者が絶対を基盤として創った世界はマーヤによって、その絶対性がわからないようになっています。しかし、そのマーヤとて、絶対を基盤としている以上、マーヤそのものの本質が絶対なのです。
それは、ひっくり返して考えると、マーヤの中にこそ、答えが隠れているということです。
よって、答えとは常にマーヤの裏側に在るという事です。
私達にとって、マーヤ解きとは、今、この瞬間に自分にとって正しい状態を捕まえる事です。時にはマーヤ解きそのものがマーヤになることもあります。
自分の考え方が、固まったときには、既にマーヤになっているのです。
ですから、マーヤ解きをしなければいけない。と、思い続けることはかえってマーヤになる場合があります。何故ならば、思いが固定化されているからです。マーヤ解きをしなければいけないと、思うのではなく、その瞬間に、あっ!マーヤだ!と、気づかなければならないのです。マーヤ解きをしなければいけないと、思い続けるのではなく、マーヤを解くのです。
マーヤの無い状態とは、常に自分の思考が固定観念として、固まらないようにすることです。
こうして考えてくると、マーヤとは実に厄介なトラップです。そして、そのマーヤとは世界でありながらも、我々の思考上にも存在しています。これらが、我々の思考を常にマーヤになるように誘導し、マーヤという呪縛から解き放たれることはないのです。
自己評価が低いのも、自信が無いのも、友達と上手くいかないのも、会社で嫌なことがあるのも、日常が憂鬱なのも、家族や恋人と喧嘩をするのも、何もかもが、マーヤです。
この世界は何処を見渡してもそこに酸素が在るように、全てはマーヤです。しかし、酸素が存在出来るのは、そこに空間があってこそです。そして、その空間こそが神です。ということは実は全てが神だということです。
空間があって、そこに酸素が在るから、私達が存在出来る。
同じように、神があって、マーヤが在るから、私達は意味のある人生を生きているのです。
どんな人生であっても、例え、それが私達にとっては意味がなさそうでも、神からすれば、すごく意味のあることなのです。
そして、それはあなたの思考上からマーヤが無くなれば、全てわかることです。
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by mikokoro-org | 2014-09-26 21:16