バクティヨーガ

バクティヨーガは、修道に於ける基本です。
これは、あらゆる宗教に共通の基盤であり、真理を求める者に要求される資質を育てる為に、避けては通れないヨーガです。
究極の真理を知る為。そして、秘教または密教を学ぶ為の土台となるものです。
答えとは、準備が与えられた者に与えられるものであり、準備が出来ていない者に与えられれば、教えが害されるばかりか、その本人も又、害されます。
バクティ。神への帰依という修道は、この準備を整えて行く為に必須な、教えなのです。
どんなスポーツでも、体力作りから。
どんな楽器を学ぶにしても、基本から。
これはあらゆる世界で共通の認識です。
基本をすっ飛ばして、秘技を得たいと思うのは、当たり前のことですが、こと、真理に関しては、その跳ね返りが凄まじいのです。下手をすれば精神も肉体もボロボロになってしまいます。
更には、誤った認識に支配され、うかばれぬ人生を送る事になります。
もし、道を正しく歩みたいならば、私達はバクティの精神を培っていかなければなりません。
例えば、かのラマナ・マハリシをみてもわかるように、一般的にはラマナの教えはアドヴァイタと言われていますが、その基本精神には、バクティという愛が息づいています。
それどころか、ラマナの教えは一言で言うならば、愛以外のなにものでもありません。これは、あらゆる聖者に共通することです。
残された言葉を頭で理解しようとすれば、必ず失敗します。真理とは言語を超越しています。よって、頭でなく、ハートでその聖者を感じるならば、必ず愛に行きつく筈です。
そして、その愛とは、愛の源によって証明されます。その証明こそがバクティであり、私達がまず取り組むべき課題なのです。
真の信仰絶えて久しい日本人にとって、確かに難しく、取っ付きにくい部分であるとは思います。
しかし、ここをクリアしなければ、恩寵は無いので、その辺の努力をすることがある程度必要になってきます。
ラマナは、真我の実現は聖なる恩寵によってのみ実現されると、ある所で説いています。
聖なる恩寵とは、与える者と、与えられる者があってこその恩寵です。
アドヴァイタ的にはなんか矛盾してそうですが、別にラマナはそんなことは気にしていません。そもそも、ラマナ自身、自分がアドヴァイタだとは思っていなかったと思います。そのアドヴァイタだと思うという認識主体があることが、アドヴァイタの教えでは無くなるので…。
そして、この様な恩寵こそが、私達が必要とするものであり、それを受け取るに相応しい、土台がバクティなのです。
このように書いてくると、しなければならないこと。と、なってしまいますが、そうなるとそうなったで、マーヤになってしまいます。マーヤになってはもともこもないので、無理は禁物です。
しかし、わからなくても、出来なくても、またやりたくなくても、愛を考える事は出来るはずです。
わからなくて良いのです。
ただ、愛とはなにか?と、問い続けることです。問いの無い所に答えは無く、問いの有る所には必ず答えがあります。
ですから、バクティという言葉にとらわれずとも、愛という意味について考察することは出来るはずです。
そこから始めていけば良いわけです。
作物を採るのも収穫が目的ですが、基本は土作りからです。
ただ、気付いた時に、愛ってなんだろう?と、自問自答するところから、バクティは始まります。
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by mikokoro-org | 2014-09-12 20:37