自信と謙虚さ。

自信と謙虚さというのは、私達にとってとても大切なバランスです。しかし、これは対極的な理解なので、この二つを併せ持つというのはなかなか難しいことです。
自信は過剰になれば慢心につながり、謙虚さは卑下になってしまいます。この二つをバランスしながら、かつ度を超さないようにするというのは至難の技です。
私は、若い頃から、修行の世界では、グルや教師達から相当チヤホヤされてきてしまっていたので、自分自身相当な自信。というより、慢心を起こしていました。しかし、ミンリン・ティチン師の元を離れ、私に襲いかかってきたのは、この慢心を完膚なきまでに叩き壊すという、かつてないほどの苦痛に満ちた修行でした。師が、日本でなければ出来ない修行とほのめかしていたのはこの修行のことでした。
かつてのスーフィーで、シブリーという聖人がおりましたが、彼は自分自身がこの世界でもっとも低いレベルの人間であるということを悟る為に、師から当時もっとも最下層の人間がする硫黄売りを命じられました。自惚れた心を完全に取り除くためでした。何年もかけて、彼の心が、自分こそ、この世界で最も価値の無い人間であると理解した時に、はじめて師は彼が教えを学ぶ事を許可しました。
この話にもあるように、慢心という毒を心から取り除く事は生易しいものではありません。
私自身、このシブリーに倣ったわけではありませんが、10代の頃はインドで、お金も無く、サドゥーと野宿生活数カ月をしたことがあります。髪はボサボサに固まり背中まで伸び、食事も殆ど摂ることなく、体重も50キロをきっていました。しかし、こんな中々誰もが出来ないような体験をしてくると、逆に慢心に侵されます。
そんな自分にこびりついたこの慢心を取り除かなければ一切先には進めないので、神の思し召しによって、最も困難な道を歩まざるおえなかったのです。
人間は辛いことでも、自信があれば、苦しみは軽く感じられます。しかし、この自信というより、慢心を取り除くというのは何にもすがることが出来ないため、その苦しみたるや壮絶です。
私は、この修行を6年間させられました。修行も全て諦め、自分とは一介の価値の無いダメ人間であるという事を激しい苦しみを通して理解し、自分も人生も全てを諦めさせられるところまで徹底的に突き落とされました。死をも考えるような毎日で、己の無価値さを徹底的に悟らさせられました。
しかし、そのお陰で今の私があるのですが、今では人生に無駄なことなどひとつも無いと理解していますから、このある意味で完全に伝統的な型にはまった修行をさせられたことは可笑しくさえあります。
神様や師、全てにまんまとはめられた訳ですから。

絶望的にはなりたくは無いですが、絶望的というのはある意味では、素晴らしい経験です。
そもそも修行とは、己の無を悟る為にあるわけですから、絶望感は普通の私達の意識状態の中で、ある意味最も理想的な状態であるとも言えます。
出来る事なら避けたいところですが、これは全て恵みという恩寵なので、最終的には感謝の念のみになります。
私は、このありがたいみこころに感謝しています。
何故ならば、これが無ければ今の私は無いからです。
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by mikokoro-org | 2014-08-01 11:38