グル

凡ゆる出来事の背後には
常にみこころが流れている。

しかし、みこころを知ろうとしなければ
出来事はただ過ぎて行く。

人生から学ぶ心構えがあるならば
人生は沢山のことを教えてくれる。

みこころを前提としてとらえるならば
我々は叡智に満たされて行く。

人生とはひとりひとりに与えられた
自分だけのグルである。

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# by mikokoro-org | 2017-10-16 23:39

信仰

その存在を知る者にとって、
もはや信仰は必要ではない。

自分は常にその存在と共に在り
自分の認識は彼を通して為されている。

見るもの聞くもの
その全てはその存在が見聞きしているのであって
自分がしているのではないと知っている。

その知覚はあまりにも自然である。
はじめから、そうであったように
全ては体験されている。

しかし、誰もがはじめからこうなのでは無い。
マーヤの世界で生まれ育ち
マーヤにどっぷりと浸かっている。

見るもの聞くもの全てが
マーヤのフィルターを通して行われて
無知に覆われていた。

しかし、定められた時を通して
人の知覚は変容する。
そしてその日から全ての知覚は彼のものになるのである。

無知に覆われていた時には
全く想像もつかなかった事だが、
この感覚はあまりにも自然で普通の事に感じてしまう。

知る者からすれば
あまりにも当たり前で自然なことである。
しかし、知らぬ者からすれば
これは奇跡とみなされるだろう。

そして、その存在を知らぬ者にとって
信仰は出来る最大限の努力のひとつだ。

彼が存在する事を信じ
それが自らにとって現実となるよう祈る事。
それが奇跡を引き起こす方法だ。

自分のたかが知れた知能で
それを否定することほど愚かな事は無い。
まず信じる事だ。

それが試されているという事の意味だ。
道を極める事は試みによって成り立っている。
我々は常に試されている。

そのいちばんはじめにあって
ふるい落す最も強烈な試験こそが
信じる心を試される経験だ。

故に、試されていると知って
信じる事だ。
そうすれば、はじめの扉が開く。




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# by mikokoro-org | 2017-10-13 23:27

真実

真理とはただ一つの答えだが、

真実とは個のみこころである。

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# by mikokoro-org | 2017-10-13 01:47

神という仮称


神とは絶対的存在を意味する言葉である。
しかし、神という言葉を受け入れられるか
受け入れられないかは、
生きてきた環境と関係する。

我々にとって神とは
わかっていない段階での仮の呼称である。
わかってしまった後に
それをなんと呼ぶかはわかった人次第である。

信仰と共に生きてきた人ならば
神という呼称を抵抗なく受け入れられる。
しかし、もし信仰の無い人ならば
神という呼称を受け入れたく無い人もいるかもしれない。

いずれにせよ、それは実在し
全てを完璧なまでに支配している。

それを喜ぶ者もいれば
喜ばない者も居る。




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# by mikokoro-org | 2017-10-06 09:41

マーヤの予防策

今日面白い事があった。
車が殆ど走っていない田舎道で、
前方を走る車が道の状況にかかわらず、
速度が落ちたり上がったりする。
前のドライバーに合わせてこちらの速度も
早くなったり遅くなったりする。

その時に私の脳は前方のドライバーの脳とリンクした。
完全にそのドライバーの脳に私の脳が支配された。
この状態を観察することで、
支配する脳について色々と考えてみた。

簡単な例を挙げると、
近くに怒っている人がいて、
その人に気を使うということは
完全にその怒っている人の脳に支配されている
状態である。

こう言ったパワーゲームは日々行われている。
他者とコミュニケートする際に自分よりも
相手の脳がイニシアチブをとっていると、
自分の脳は完全にその人に支配されてしまうのだ。

これがマーヤに巻き込まれて行くプロセスである。
マーヤに巻き込まれない為には
観察し続けていることが重要である。

今日のドライバーの一件でももし観察していなければ
前方のドライバーのムラのある運転に腹をたてるだろう。
 腹がたてばもちろんマーヤになる。
しかし、観察していることで、
その時々に得ることが必ずある。

ひたすら客観的に観察することで
マーヤになる事を回避することができるのである。

マーヤには基本予防策は無いが、
客観的観察が唯一の予防策と言えるだろう。







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# by mikokoro-org | 2017-10-06 00:24

認識系マーヤ

次は認識系マーヤだ。

人間とはどんな者であってもアイデンティティというものをもっている。
俺は喧嘩が強い。という低次のものから哲学的なものまで。
何れにせよ、このアイデンティティが他者とを区別し、自分の独自性を確立するのだ。

ところが、自分より優れた者は沢山居るし、自分の考えを否定する考えも存在する。

認識系マーヤは脳のバグと書いたが、この様に自分と異なった思考を持つ者と接触した時に脳はバグるのである。

自分と異なった思想を力説されて、自らの思想が揺らいだり、
自分より高い能力を持つ者を前にした時に自分の能力に自信を無くしたり、
こう言った事は全てマーヤになる。

常に忘れてはならないのは、
自分に代われる人間は居ないという事。
能力の優劣では無く、
自分という人間は自分しか居ないという事。

こう言った全てをマーヤという言葉で括ることが大切である。
ゴミ箱の無い家はどうなるか?
家中ゴミだらけになってしまう。
ゴミ箱を置いてそこにゴミを捨てることで
家を綺麗に保てる。

同じ様に、脳内にマーヤというゴミ箱を設置する事。
そうすれば、余計なものは全てマーヤボックスに捨てられる。
そうすれば、脳内を常に健全に保てる。

まず始めは全ての自分の想いやジャッジに
マーヤであるとラベリングしていくこと。
この認識が確立してくれば落ち込む事は無くなる。

そして、マーヤとして処理出来ない現実が
襲ってきた時は…。

みこころとして受け入れる事。

これが要だ。














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# by mikokoro-org | 2017-10-03 00:41

エネルギー系マーヤ

マーヤには2種類ある。
ひとつは認識系。
もうひとつはエネルギー系。

マーヤらしいマーヤと言えば勿論認識系だ。
しかし、人間とはエネルギー体であり、
接触する人々とエネルギー交換を行なっている。

別の言い方をすると、
認識系マーヤは脳のバグであり、
エネルギー系マーヤは心のバグである。

私達は日々多くの人と接し、
そのエネルギーを無意識下で受け取っている。

例えば、今日〇〇さんは元気ないな。
と、思ったとしよう。
それは、見た感じという風に解釈しているかもしれないが、
実は相手のエネルギーを自分のエネルギーが感じ取っているのだ。
ふたつのカップにそれぞれ綺麗な水と汚れた水が入っているとする。カップは肉体で意識は水だ。
人間同士の接触というのは意識、ここでいう水の交流なのだ。
よって、綺麗な水も汚れた水と交わると汚れてしまう様に、我々の意識も他者のエネルギーと交わることで、汚れてしまう。
特に元気の無い人、既にエネルギー的にやられている人のエネルギーはもろに受けてしまう。

だから、夜マーヤ解きを行い、今日誰と会ったのか?何をしたのかを想起する事が重要になってくる。

こうして、他者のエネルギーに気付くことで、
そのエネルギーは取り除かれる。

そうすればあっという間に復活できる。

これがエネルギー系マーヤを取るということだ。











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# by mikokoro-org | 2017-10-03 00:19

澤乃井ガーデンにて

もうかれこれ25年程前の事だ。
チベットのチャンドゥ・トゥルクという活仏と
私が当時暮らしていた京都で過ごす機会を得た。
数日の間私のマンションに滞在し
共にしこたま日本酒を飲んだ。
酔いがまわると活仏はマントラを唱えながら
至福を味わっていた。
その沈黙はとても心地良かった。

ある日、私達はお好み焼き屋で昼間から酒を飲み
その足で龍安寺に詣でた。
世界的に有名な石庭は活仏も良く知っていた。
そしてその石庭を見渡せる濡れ縁にどっしりと腰を下ろすと
ひとり静かな黙想に入った。
その威厳に満ちた圧倒的存在感は見知らぬ参拝者をも魅了した。
実に稀なる美しい光景であった。
修行の最中であった私は
活仏はこの静けさの中でいったい何を感じ、
何を想うのだろう。
それが知りたくて仕方がなかった。

それから25年という月日が流れた。
この秋にしか飲めないという限定の日本酒を
心地の良いガーデンで嗜む。
川面に輝く陽の光。
欅の葉の一枚一枚が煌めき
とても美しく、全てが、
唯、あるがままだった。

ふと、25年前のチャンドゥ・トゥルクを想い出す。
あの時知りたかった師の内的な世界が、
今、自分の目の前に広がっている。
唯、あるがままの世界。

宗教的世界、精神世界、
そんなものはどうでも良い唯のあるがまま。
師達は修行者の深刻さをいつも笑い飛ばしていた。
そこには深刻さとはかけ離れたくつろぎが存在していた。
全てが一体であり、愛に満ち溢れ
愛おしさが世界を包む唯のあるがまま。

唯普通であること。
なんと言う喜びだろうか。

世界は愛おしい。













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# by mikokoro-org | 2017-09-29 23:36

聖霊

夜が深まる静かな時間。

聖霊の到来は意識を瞑想へと誘う。

瞑想はなんら企だてられる事なく自然に起こる。

本来の自分の本当の意識の状態がここに在る。

全てが目覚め、透徹している。

聖霊のひと触れは私達を無知から解放し

大いなる意識へと導く。

それは既にここに在る者でありながらも

やって来る者であり

頭脳で捉える事が出来ない者である。

全ては恩寵であり

その恩寵が全てを決める。

ひとたびこれを経験したならば

不滅という言葉の意味を悟るであろう。

これはそれを知るべき者によって知られる真理である。





















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# by mikokoro-org | 2017-09-29 00:27

マーヤ

いかなる思想もマーヤであり得る。

ブッダは真理を説いたが
教団となったことでマーヤと成った。

キリストも然りだ。

乾いた空間に湿度が流れ込むように、
マーヤは凡ゆるところに流れ込んで来る。

マーヤは人の集まるところに
必然的に流れ込んで来るようになっているのだ。

人が沢山集まれば
それぞれ異なった考え方による不和が生じる。

その不和を解消する為に
信徒としていかに振る舞うかを細かく規定する。

いつしか、自己の解放の為に参加した集いは
手枷足枷となる。

人をコントロールしようとすれば
マーヤは必然的に生じる。

それに従う事もマーヤである。 

人と競争しても、
他人と自分を比較しても、
優劣も、
他人との関わりの何もかもがマーヤとなる。

本来人を救うべき宗教はマーヤとなり
我々を偏った思想に染めてしまう。

しかし、唯一純粋なこころでマーヤに惑わされることなく、
真理を愛した者だけはその中にあっても救済を得る。

自分自身のこころの内側にあってくつろぎ、
外の世界のマーヤから自由になり、
己の内に安らぐならば、
まばゆい真理に辿り着くだろう。

常に真理は自己と共に在るのだ。




















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# by mikokoro-org | 2017-09-27 23:27