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一輪の花

完璧な一輪の花を美しく咲かせる為には、
まわりの蕾は取り除かれなければならない。

同じように、余計なものを取り除いて行く事で、
私達は唯一性という大輪の花を咲かせる事ができる。

例えそれが崇高なるものであったとしても、
二元的な存在であるならば、
それは取り除かれなければならない。

園芸家が勿体無いと思いながら、
ひとつの蕾を残してそれ以外を全て取り除くように、
私達もそれ以外を全て取り除かれなければならないのだ。



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by mikokoro-org | 2017-05-25 00:59

唯一者

真理とは唯一であることであり、
二元性はマーヤである。
しかし、唯一性にフォーカスするならば、
二元性はマーヤでは無くなる。

神や真我へのフォーカスもマーヤである。
しかし、唯一性にフォーカスするならば、
神も真我もマーヤでは無くなる。

我々が意図しなければならないのは
唯一性であり、
それ以外のものではない。

唯、唯一者のみが存在し、
それは、それを知るものによって知られる。








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by mikokoro-org | 2017-05-24 00:59

タントラの智恵

この世界には、
頭で理解出来るものもあれば、
頭で理解出来ないものもある。

リング上の2人のボクサーの両方を
応援出来ないように、
我々の思考はどちらか一方を選択する。

人間の思考は両極を選択することは出来ない。
好ましいか、好ましくないか、
選ばなければならない。

しかし、頭の理解を超えた理解は、
この両極を同じように選ぶことが出来る。

本来あるがままの状態とは混沌である。
人類は混沌という混乱を取り除く為に
あらゆる努力を行い物事を整理して来た。

しかし、どちらか一方を選択すると、
別の混乱が生じる。
故に、もう一方を否定せざるを得なくなる。
それが実在しているにもかかわらずである。

ここにタントラの叡智がある。
タントラでは、どちらか一方を選ばない。
別の言い方をすれば、
タントラはカオスを選択する。
実際、選択はしていないのだが…。

常に両極をひとしく観る。
それが、タントラである。










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by mikokoro-org | 2017-05-19 23:48

人間の四つのタイプ

愚かさゆえにその存在を信じぬ者は、
輪廻の大海を彷徨い続ける。

賢さゆえにその存在を信じぬ者も、
輪廻の大海を彷徨い続ける。

愚かさゆえに誤った教えを信じる者も、
変わらず輪廻の大海を彷徨い続ける。

しかるに、賢く、信じる心をも持つ者は、
輪廻の大海を脱し光明へと至る。


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by mikokoro-org | 2017-05-19 23:42

救い

我々が出会うのも、
そして別れるのも、
全ては神のみこころである。

ただひたすら、
自らを空しくして、
その意志に全てを委ねることである。
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by mikokoro-org | 2017-05-19 23:39

宇宙の母

この宇宙一切に存在するあらゆる生命は、
菌類から我々人間に至るまで、
全て母のシャクティによって生かされている。

生きるという事は母のシャクティの恩寵無くしてはあり得ない。
我々の一切の生命活動は母に依るものなのである。

我々が生きているのは、母在ってのこと。

母は遍在し、そこかしこで、生命と戯れている。
あらゆる命あるところに母の活動を見て取れる。

母こそが生命の源なのである。
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by mikokoro-org | 2017-05-12 01:04

答え

私達は何処からやって来たのだろうか?
そして、何の為にここに存在しているのだろうか?
果たして、この問いに答えはあるのだろうか?

答えは存在する。
しかも、その答えは至福と共にある。
それは実に甘美である。
そして、それに至る為に私達は、
答えに至る糸を手繰り寄せていかなければならない。

その答えに至る糸とは観察することである。
存在の原因である宇宙の根源と、
存在の結果である私を観察し続けることである。

いかなる時も、これらを観察し続けるならば、
私達は智恵の階梯を登り続ける事ができる。

例えば、ヤブ医者にかかってしまった時、
普通ならば、学んでせいぜい二度とここにはこない。
となる訳だが、
これらの観察を行う者は、さらに内省を深める。
何故、このヤブ医者にかかる必要性があったのか?
この問いは自己へのフォーカスが行われていなければ起こらない。
ということは、この問いが生じてくるならば、
すでに自己の存在と起こる出来事への観察が為されている結果である。

この観察の結果、私達は普通と異なる智恵を獲得する。
そして、この智恵が集積されていくならば、
私達の意識は確実に目覚めていく。
人生は積み重ねであり、何事も一朝一夕には成し遂げられない。
自己の探求は最たるものである。

我々はなんでも答えをすぐ欲しがる。
これは普通のことである。
しかし、答えとは積み重ねの結果明らかとなるものだ。
ひとつやふたつワークショップに出て結論は得られない。

私達は諦めることなく、忍耐強く、
日々、自己を観察し続けなければならないのだ。








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by mikokoro-org | 2017-05-11 14:27

私は在る。

貴方は失神した事があるだろうか?
失神とは、神を失うことである。
神を失うと、私を失う。
この経験は私達に私が無くなるということを教えてくれる。

普段は起きていても、眠っていても、
私はあり続ける。
例えば、6時間眠ると、6時間眠った感覚がちゃんとある。
しかし、失神すると、6時間が完全に失われる。
まさに、私が無くなる経験である。

失神を体験した事のある者は、
完全なる無というものを経験する。
逆に、その無を経験することで、
在るという経験をするのだ。

起きていても寝ていても、
私が在り続けているという経験である。

私達の体を部屋にたとえるならば、
部屋は体であり、
意識は電気の灯りである。
私達は夜灯りの元で、
本を読んだり、食事をしたりと、
様々な活動をする。

同じように、私達はこの体と、意識の元で、
様々な考えを行い、妄想に耽る。
しかし、いかなる思考活動も体と意識有ってのものである。
瞑想とは、その思考活動の背後に常に存在している
私という意識に目覚めていることである。

瞑想の初心者は、瞑想を通して思考を追い払おうとする。
故に、瞑想は失敗に終わる。
瞑想とは意識へのフォーカスである。
意識は表面の思考などの活動とは無縁である。

薄暗い部屋で本を読む時に、
暗いな。と、電気の明るさを意識しながら読む様に、
様々な思考があったとしても、
意識そのものにフォーカスすることは出来る。

それが、私が在るということである。

瞑想とは思考を追いやる事ではなく、
意識にフォーカスし、思考を放っておく事である。

このあるがままの状態に気付いている事というのが瞑想であり、
実現するべき自己はすでに実現されているという
自己の実現へと導いてくれる。

そして、存在の源はこの経験によって知られることとなる。

この段階まで来ると、もはや知るべき事は無くなる。

私の存在、そして出来事は全て、
この私に依るものではなく、
絶対的なものに依拠しているのだと。

そこに、一切の迷妄は存在していない。
















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by mikokoro-org | 2017-05-10 23:32