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マーヤの解き方

さて、前回マーヤについて書きましたが、今回はさらにもう一歩踏み込んでみます。
マーヤは解くものであって、マーヤ解きをすることを考えてはいけないと書きました。しかし、マーヤ解きをする事を忘れてしまうと、今度はマーヤになります。そこで、どうすればマーヤ解きを考えずに、マーヤを解くことが出来るのかを考えてみましょう。
私は、マーヤ解きを意図するという言葉を使います。
これは、正しい日本語ではありませんが、私的にはこの言葉がしっくりくるので、このニュアンスでこの言葉をつかっています。
全ての言葉に共通ですが、言葉には、それぞれ意味も目的もあります。
意図とは、心中の企てを意味しますが、意識するという言葉より、より深いニュアンスがあります。
マーヤ解きを意識するというと、その意味は直接的であり、四六時中、マーヤ解きに集中している状態をさしますが、意図は、企てなので、直接的ではありません。そこには、別のものに働きかけをしつつ、そのエフェクトで目的が達せられるような企てです。Aに集中するのが意識するであって、Bに集中しつつ、そのエフェクトによって結果Aに集中が集まる状態です。
要するに、マーヤ解きを意識するのではなく、マーヤ解きを意図するということは、マーヤ解きに意図を置きつつ、日常的な行為に集中するということなのです。
例えば、好きな異性がいると、どうしても意識してしまいます。ずっとその相手に集中してしまいます。
ところが、付き合ったりしてしばらくすると、四六時中意識はしていないけれども、心には常にその相手がいます。
嬉しい事があれば、この話しを相手にしようと、まず思ったり、綺麗な物や可愛らしいものを見つけると、これをあげたいなと、思ったり。ずっと相手の事を考えているわけでは無いにもかかわらず、なにかきっかけがあれば、その相手を思い起こします。
好きな相手の場合には、好きなので、意図する必要性すらないのですが、マーヤ解きは好きなわけではないので、何らかの形で、心に印象づけておかなければなりません。
それが、意図するということなのです。
マーヤ解きを意図すると、ことさら、集中しなくても、あらゆる出来事は、自動的にマーヤ解きされて行きます。
では、マーヤ解きをしなくてよくなるのか?というと、そうではありません。やはり、それなりの時間をマーヤ解きに当てていかなければなりません。
しかし、マーヤ解きが意図されていると、出来事が起こった段階で自分の認識に入って来る情報をマーヤとして識別出来るということです。
最初にマーヤというラベリングがされた状態で認識の中に入ってくると、後でマーヤを解くのが楽になります。
この様にすることで、マーヤ解きをするという事を意識しなくて済む様になるのです。
マーヤ解きによってマーヤが解かれ、かつ、マーヤ解きをするという事を意識しなくて済む様になるのです。
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by mikokoro-org | 2014-09-30 20:23

マーヤとは

仏陀にはシタール弾きの弟子がいました。ある時、その弟子が上手く瞑想が出来ないと師に相談すると、仏陀は、
「あなたはシタールを弾く時、弦をどの様に張りますか?」
と、尋ねました。そこで弟子は
「強くも緩くも無く張ります」と、答えると、仏陀は
「瞑想も同じ事です。心を張りつめ過ぎず、緩ませすぎずです。」
と、返答したという話があります。
これは瞑想に関しての問答ですが、マーヤも同じ事です。強過ぎてもマーヤになるし、緩め過ぎてもマーヤになります。
激しい修行をしても、また修行を怠っていてもマーヤになります。
修行をしなければ、しないから成長しないとマーヤになり、修行をすれば、なんでこんなにやってるのに成果が出ないのかと、マーヤになります。
それは因果の法則にとらわれてしまうからです。人間で行為に対する結果を求めない者は殆どいないからです。
よって、どちらにしてもマーヤになります。程よく、強過ぎず弱過ぎずが、大切なのです。
また、さらにひとつ例えると、金銭苦で悩んでいる時に、全ては空性で、金銭苦は存在しない。と、念じたところで、金銭苦は無くなりません。ですから、このやり方をする限り、マーヤになります。しかし、人によっては、マーヤにならないかもしれません。
さて、ここからが本題です。
マーヤとは、意識の正しくない状態を意味します。よって、正しくない方法は必ずマーヤになります。そして、何が正しくて、何が正しく無いのかは、人によっても、またその時によっても変わります。大切なのは、自分にとって正しい状態であることです。何が正攻法なのか?ではなく、今、何がマーヤで無い状態で、何を求められているのかです。
この世界に絶対はありません。ですから、状態は刻々と変化しているのです。
但し、絶対者の被造物である世界であるという観点からすれば、絶対なる者が造った世界は絶対です。絶対なる者に絶対でないものを創る事は出来ません。
さらに付け加えるならば、絶対者が絶対でないものを意図して創ったとて、それは絶対になってしまうのです。
よって、マーヤというのも絶対という呪縛から逃れることはできません。
マーヤとて絶対的な無知なのです。
その様に理解することで、マーヤを解くことができます。何故ならば、答えが存在しないということは無いからです。
絶対者が絶対を基盤として創った世界はマーヤによって、その絶対性がわからないようになっています。しかし、そのマーヤとて、絶対を基盤としている以上、マーヤそのものの本質が絶対なのです。
それは、ひっくり返して考えると、マーヤの中にこそ、答えが隠れているということです。
よって、答えとは常にマーヤの裏側に在るという事です。
私達にとって、マーヤ解きとは、今、この瞬間に自分にとって正しい状態を捕まえる事です。時にはマーヤ解きそのものがマーヤになることもあります。
自分の考え方が、固まったときには、既にマーヤになっているのです。
ですから、マーヤ解きをしなければいけない。と、思い続けることはかえってマーヤになる場合があります。何故ならば、思いが固定化されているからです。マーヤ解きをしなければいけないと、思うのではなく、その瞬間に、あっ!マーヤだ!と、気づかなければならないのです。マーヤ解きをしなければいけないと、思い続けるのではなく、マーヤを解くのです。
マーヤの無い状態とは、常に自分の思考が固定観念として、固まらないようにすることです。
こうして考えてくると、マーヤとは実に厄介なトラップです。そして、そのマーヤとは世界でありながらも、我々の思考上にも存在しています。これらが、我々の思考を常にマーヤになるように誘導し、マーヤという呪縛から解き放たれることはないのです。
自己評価が低いのも、自信が無いのも、友達と上手くいかないのも、会社で嫌なことがあるのも、日常が憂鬱なのも、家族や恋人と喧嘩をするのも、何もかもが、マーヤです。
この世界は何処を見渡してもそこに酸素が在るように、全てはマーヤです。しかし、酸素が存在出来るのは、そこに空間があってこそです。そして、その空間こそが神です。ということは実は全てが神だということです。
空間があって、そこに酸素が在るから、私達が存在出来る。
同じように、神があって、マーヤが在るから、私達は意味のある人生を生きているのです。
どんな人生であっても、例え、それが私達にとっては意味がなさそうでも、神からすれば、すごく意味のあることなのです。
そして、それはあなたの思考上からマーヤが無くなれば、全てわかることです。
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by mikokoro-org | 2014-09-26 21:16

完全性

私達の問題はそれを知らない事である。

それを知らなければ
この世界は不完全に見える。

しかし、もしそれを知るならば
この世界は完璧となる。

それの完全性を知るならば
この世界もまた完全性によって
成り立っていると知る。

何故ならば
完全性の在るところに在るのは
完全性のみだからである。
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by mikokoro-org | 2014-09-19 00:44

バクティヨーガ

バクティヨーガは、修道に於ける基本です。
これは、あらゆる宗教に共通の基盤であり、真理を求める者に要求される資質を育てる為に、避けては通れないヨーガです。
究極の真理を知る為。そして、秘教または密教を学ぶ為の土台となるものです。
答えとは、準備が与えられた者に与えられるものであり、準備が出来ていない者に与えられれば、教えが害されるばかりか、その本人も又、害されます。
バクティ。神への帰依という修道は、この準備を整えて行く為に必須な、教えなのです。
どんなスポーツでも、体力作りから。
どんな楽器を学ぶにしても、基本から。
これはあらゆる世界で共通の認識です。
基本をすっ飛ばして、秘技を得たいと思うのは、当たり前のことですが、こと、真理に関しては、その跳ね返りが凄まじいのです。下手をすれば精神も肉体もボロボロになってしまいます。
更には、誤った認識に支配され、うかばれぬ人生を送る事になります。
もし、道を正しく歩みたいならば、私達はバクティの精神を培っていかなければなりません。
例えば、かのラマナ・マハリシをみてもわかるように、一般的にはラマナの教えはアドヴァイタと言われていますが、その基本精神には、バクティという愛が息づいています。
それどころか、ラマナの教えは一言で言うならば、愛以外のなにものでもありません。これは、あらゆる聖者に共通することです。
残された言葉を頭で理解しようとすれば、必ず失敗します。真理とは言語を超越しています。よって、頭でなく、ハートでその聖者を感じるならば、必ず愛に行きつく筈です。
そして、その愛とは、愛の源によって証明されます。その証明こそがバクティであり、私達がまず取り組むべき課題なのです。
真の信仰絶えて久しい日本人にとって、確かに難しく、取っ付きにくい部分であるとは思います。
しかし、ここをクリアしなければ、恩寵は無いので、その辺の努力をすることがある程度必要になってきます。
ラマナは、真我の実現は聖なる恩寵によってのみ実現されると、ある所で説いています。
聖なる恩寵とは、与える者と、与えられる者があってこその恩寵です。
アドヴァイタ的にはなんか矛盾してそうですが、別にラマナはそんなことは気にしていません。そもそも、ラマナ自身、自分がアドヴァイタだとは思っていなかったと思います。そのアドヴァイタだと思うという認識主体があることが、アドヴァイタの教えでは無くなるので…。
そして、この様な恩寵こそが、私達が必要とするものであり、それを受け取るに相応しい、土台がバクティなのです。
このように書いてくると、しなければならないこと。と、なってしまいますが、そうなるとそうなったで、マーヤになってしまいます。マーヤになってはもともこもないので、無理は禁物です。
しかし、わからなくても、出来なくても、またやりたくなくても、愛を考える事は出来るはずです。
わからなくて良いのです。
ただ、愛とはなにか?と、問い続けることです。問いの無い所に答えは無く、問いの有る所には必ず答えがあります。
ですから、バクティという言葉にとらわれずとも、愛という意味について考察することは出来るはずです。
そこから始めていけば良いわけです。
作物を採るのも収穫が目的ですが、基本は土作りからです。
ただ、気付いた時に、愛ってなんだろう?と、自問自答するところから、バクティは始まります。
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by mikokoro-org | 2014-09-12 20:37

マーヤと現実。

現実の事を考えてばかりいると、
頭は現実というマーヤに支配され、
物事をありのままに見ることが出来なくなってしまう。

マーヤをマーヤとして見ること無く、
マーヤを現実として見てしまうことで、
マーヤが現実となってしまう。

マーヤが現実となれば、
それはもはやマーヤではなく
現実である。

そして、マーヤが現実になれば、
私達は現実に支配され
その支配下に置かれる。

しかし、現実を現実としてではなく、
マーヤとして見ることが出来るなら、
それは、もはやマーヤであり、
その現実は拘束力を失う。

私達はマーヤが意味するそれを理解していない。
もしも、マーヤという言葉の意味を理解し、
「マーヤが在る」という認識を使う事が出来る様になれば、
私達は、この世界の全てから
開放される。

何故ならば、私達が開放され無いのは、
マーヤだからである。
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by mikokoro-org | 2014-09-02 11:22