<   2014年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

夜の時間

夜、虫の声を聞きながら、
部屋で静かに座っていると、
それの世界の中に居た。

それは、全てを支配し
意識を変容させる。

それが無い時には
それが無いということに気がつかない。

それが在る時にはじめて、
それが無かったという事に気づく。

それは言葉によって表現不可能であり、
記憶することさえ出来ない。

それが在る時にのみ、
至福を味わい、

その感覚は
それが無い時には
思い出すことさえ出来ない。

それは別の次元でおこっており
ここに在るものではない。
しかし、それはここにも在り、
そればかりか、それが無い場所は無い。

それは不滅で遍在である。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-29 21:04

帰依

チベットで、修行を志す際、避けて通れないのが帰依の五体投地です。
何処の宗教でも、第一にくるのが神への帰依ですが、チベットでは、これを五体投地という方法を通して行います。
チベットの五体投地は、回数をこなすので、まず、身体がボロボロになります。手のひらや、膝、額が、大地と擦れ合い、擦り剥け、打撲し、フラフラになります。疲れてくると、膝がカエルみたいに横に開いてしまうので、タオルなどで両膝を縛り、固定して、カエルさんにならないようにしながら行います。
1日の回数は人それぞれですが、私は500回を5回ぐらいやってました。そうすると、2〜3000回が1日のノルマになるのですが、体育会系じゃない私からすればはっきり言って死にます…。
そもそもなんの為にこんな事してるのか、訳がわからなくなってきます。チベット人のように、子供の頃から徹底された信仰心がある者ならば、神仏の存在は確信しているので、五体投地を通して来世の幸福を願ったりすることは、何の疑問も無いかもしれません。
しかし、私のような日本人からすれば、いくら信仰心があったとしても、その信仰心は確信ではないので、辛い行をしていると、こんな事して意味があるのか?とか、単純に思ってしまうわけで、この行の期間、神と自分と信仰心の間で混乱しまくりました。
こんなのが、10万回まで続くのです!
私は、この行を通して、自分の信仰心の貧弱さを思い知らされました。
肉体の辛さを神仏に捧げる喜びとして捉えられるまで、五体投地は快感にはなりません。
そういった意味において、この五体投地はとても重要な意味をもつ修行だと私は思っています。
チベットの人達は、辛さを経験することで、神仏に近付いているのだということを実感しているのだと私は思います。
チベットでは、五体投地を経験しなければ、仏教のいろはのいの字も語れないのです。
それは、信仰全てに共通することですが、大切なのは、深遠なる奥義とかそういう事ではなく、愛だからです。
勿論、初心者はそんな事は理解出来ないので、私なども瞑想法や奥義ばかりに気をとられていました。しかし、今では核心を理解しています。私達にとって必要な事は全身全霊で神を愛することであり、それを力の限りを尽くすという事です。
そして、それを教えてくれる第一歩が、この五体投地だと言えます。
何を教えてくれるかというと、自分が信仰の道を進む為に必要な全託という意味です。
その道を歩むには私達は精神的にも、肉体的にも貧弱すぎます。その事を五体投地は教えてくれます。自分がいかにダメダメなのか。ということを思い知った時に、道は少しずつ開かれて行くのです。
そうして、神に向き合う為の心構えが養われて行くのです。
勿論、日本で生活しながらの五体投地は難しいと思います。
しかし、五体投地そのものが重要なのでは無く、大切なのは、自らを神に差し出す覚悟です。この覚悟が調うなら、別に五体投地は必要ではありません。
私達は愚かで、学習能力が低いために先人たちが作り上げていったのが、修行というシステムです。
一を聞いて十を知る理解力があるならば、全ての修行は不必要です。
私は、そう理解しています。
全ての理由は愛であり、目的も愛です。
私達が理解するべきことは、全てが、ひたすら愛によって、そして、愛の為に起こっているのだということです。
まわり道をすることになりますが、私達が核心に到達するために、全ては仕組まれているのです。
物事には常に隠された核心が潜んでいます。その核心を理解することが要となるのです。
私は五体投地から、多くを学びました。その学びとは、帰依とは、最初の一歩であり、かつ、最終目的である。ということです。
帰依を欠いて成就する修行など、この世には何ひとつとして存在していません。
もし、あるとするならば、それは神の道の反対に属するものです。
ですから、修行の心得として理解しておいて下さい。
愛。そして、それを証したてる事。
それが帰依なのだということを。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-27 20:34

ツォペマ

北インドのヒマーチャルプラデーシュ(州)に、ツォペマという小さな湖の聖地があります。ここは、ヒンドゥー、シーク、仏教など、あらゆる宗教で、聖地として崇められている場所ということもあり、多くの異なった宗教の信者達が集う、ちょっと異例な場所です。
私はこの地が好きで、何度か訪れています。チベット仏教の開祖である、パドマ・サムバーヴア(グル・リンポチェ)の有名なエピソードがある土地で、大昔、ここはサホール国と呼ばれておりました。グル・リンポチェはこの地で、修行を行い、更にはマンダラヴァという二大明妃のひとりを得た場所として、有名です。
現在はグル・リンポチェが修行したとされている湖を見渡す山の上の洞窟寺院をはじめ、湖畔にニンマ派やカーギュ派の寺院があります。

私がツォペマに滞在していた時は、ニンマ派のお寺に滞在し、早朝まだ暗い4時からゴンカン(守護神堂)で始まるソルカという超キワモノ的なお勤めに参加したり、カーギュ派のお寺で五体投地をして過ごしていました。
この頃は加行の最中で、10万回の五体投地に励んでいました。チベットでは、修行を始めるにあたって、この10万回の五体投地は避けては通れない行なので、篭りながらある程度まとめて集中的にこなしていきます。それこそ、一日中やることになるので、結構な体力が必要になります。更には、チベットの僧侶などは、毎朝108回をレギュラープラクティスとして行なっている者も多いので、みんな相当なマッチョです。修行者というと、どこの宗教でも、痩せ型の人が多いのですが、チベットの修行者はみな逞しい体をしています!ダライ・ラマ法王も、相当な体格です。
これは、みな、五体投地というマッチョな行をしているからです。
私も毎日108回こなしていましたが、7〜8年ほど前に健康診断したら、血尿が出て、「何かハードな運動してませんか?」なんて看護師さんに聞かれて、あえなくドクターストップがかかってしまいました。

さて、話は元に戻ってツォペマです。
私は、この地には、相当深い思い入れがあります。
何が?と言われると困ってしまうのですが、初めてこの地を訪れた時、到着したのは既に暗くなっていて、行き当たりばったりで宿をニンマ派のお寺に決めました。雨がしとしとと降り、カビ臭い宿坊が陰気で、なんとも言えない雰囲気を醸し出していました。木造りのガランとした建物は、どこか懐かしく、昔、宮崎県の従姉妹と泊まった日南海岸の学校の校舎を思い出しました。
あきらかなる、異界の気配を感じてなかなか寝付けずにいると、まだ夜中にもかかわらず、遠くから太鼓の音が微かに聞こえてきました。眠れず寝返りばかりうってても仕方ないので、ベッドを抜け出して、外を探索してみました。音のする方に歩いて行くと、ゴンカンという小さなお堂から、その音は聞こえてきました。
近づいてみると、外にはサンという神々を供養する為のお香がもくもくと焚かれ、ひとりの密教行者が太鼓を叩きながら、お経を読んでいました。薄暗いお堂の中は、灯明の灯りだけがユラユラと燃え、その壁には一面に髑髏や、人間を喰らう獰猛な神々の姿が描かれ、チベット特有のムードが漂っていました。
私はいけない物を見てしまった感があり、そそくさと立ち去ろうとしましたが、鼻眼鏡越しにチラリとこちらを見た老行者が読経を続けたまま、私を手招きしました。そこに座れと手で合図をしたので、私はそのまま、勤行が終わるまで、座り続ける事になりました。
そこに座っている間に、いろいろと観察できたのですが、それはそれはおどろおどろしい空間でした。
ほとんどのチベットのお寺には、このゴンカンという守護神堂があり、そのお役の僧侶や行者が神々を鎮める為に、このお勤めを夜中から毎日欠かす事なく行なっています。
そして、その勤行が終わる頃になると、やっとあたりが明るくなってきました。
お勤めが終わると、行者はお勤めの最中とは全くの別人のようにニコニコしたお爺さんになりました。あの張り詰めたような空気は正に、異次元の扉が開かれた状態から来るものだったのですが、その中にあっては、行者は全身のエネルギーを集中し、完全なる戦闘態勢だったのだと、後でわかりました。
このような面白い経験もあり、更にはそのお寺の雰囲気や、山の上の洞窟寺院など、どこか懐かしいような、私の魂を揺さぶるようなものが、ここには沢山あるのです。
あげつらうと、きりがないですが、何かに惹かれるのには理由は必要ないかもしれません。それは強力な引力のようなもので、引き込まれる事を拒む事は出来ません。
私は、そういった引力を持つ場所を幾つか知っています。
果たしてそれが、土地とのカルマなのか、もしくは土地のエネルギーなのか?
それは色々だと思います。
いずれにせよ、そういった場所で過ごすことには意味があり、そこには必ず、何らかの意図があることは間違いありません。
私はこういった沢山の稀有なる土地に導かれて生きてきました。そして、この貴重なる経験のひとつひとつが私にとっては、神の奇跡です。
私の若い頃の経験の記憶は、今思い出すと、過去生の記憶のように、遠く感じられます。勿論、この今の日本での暮らしと比較すると、あまりにもかけ離れているからです。ただ、面白いのは、これらの経験のひとつひとつが綺麗なひとつの道筋を描いていて、まるで物語が展開していくように展開し、完全なる宇宙の意思がそこにはっきりと見て取れるということです。
生きているのではなく、生かされていること。
行為しているのではなく、行為させられていること。
これらは、過激に生きれば生きるほどに明確になってきます。
私は、自分自身がこのように生かされてきたこと、行為させられてきた事を大変ありがたく思っています。
今となっては、ただ感謝あるのみです。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-25 20:09

内省

内省とは、自分の意識の観察です。
辞書では、内観と同じと言う説明になっていますが、内観と内省はちょっとニュアンスが違います。内観は観ずることなので、観ることです。観るとは、瞑想であり、言葉を必要としません。
しかし、内省とは、反省であり、想起や言葉を通して理解される方法です。

私が普段提唱しているマーヤ解きや御心解きは、一言でいうと、この内省になります。
内省は常に省みることです。
創造主のプログラムを解読し、創造主が自分自身に望むことを理解し、日頃の行動や思考を反省し、常に謙虚なる心を持って、主に仕えることです。
瞑想や、修行をすれども、この内省を行わない事が、自己の内に誤った神の認識を作り出し、ダークサイドに堕ちるのです。勿論、修行者とて人間ですから、ヘマはいくらでもしでかします。しかし、内省を行うなら、その軌道は修正されます。
修行の結果、己が宇宙の中心であり、真我であり、神である。という認識はやってきます。しかし、内省を行うものは、この事実を謙虚に受け止めます。間違っても「俺は神だ!」とは、言いません。
自分が宇宙の中心だからこそ、この戒めが起こっているのである。と、考えるわけです。
私は、よく神様に怒られるという表現をします。何故かと言えば、全ては内省の為に起こっているからです。
怒られるとは、内省が促されるという意味であり、怒られるという認識が、自分で気付く事が出来なかった命題に、やっと辿り着く事ができるからです。
こうして、内省が出来る者は賢者となり、内省ができないものは闇に飲まれていくのです。
慢心を起こさない為に、内省を行うこと。
それが、安全な道なのです。
内省を通して、マーヤを解き、みこころを明らかにする。そして、その事から、自らを省み、学ぶ。
それが、賢者の道というものです。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-22 20:22

賢者の道

賢者の道は
内省の道である。

内省が無ければ
どんなに修行しようとも
人は闇に堕ちる。

私達を正しく導くのは
内省である。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-21 11:43

智恵

我々は与えられる者であり、
与える者ではない。

智恵とは恵みであり
与えられるものである。

私達に与えられた智恵は
与えられたものであって
自ら得たものでは無い。

よって、如何なる叡智も
それは我々に属するものではない。
それは彼のものである。

私達に帰属するものは
何ひとつ無い。

全ては、
それのものである。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-13 00:20

真実在

かつて、多くの聖者達によって
知られてきた無とは、
無いという事が在るということである。

もし、無いという事が無いならば、
それは認識されることも知られる事も無いからである。

有る事も無い事も、
在るという事によって証したてられる。

そして、その在るということが、
真実在である。

それが、存在している。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-12 00:59

自信と謙虚さ。

自信と謙虚さというのは、私達にとってとても大切なバランスです。しかし、これは対極的な理解なので、この二つを併せ持つというのはなかなか難しいことです。
自信は過剰になれば慢心につながり、謙虚さは卑下になってしまいます。この二つをバランスしながら、かつ度を超さないようにするというのは至難の技です。
私は、若い頃から、修行の世界では、グルや教師達から相当チヤホヤされてきてしまっていたので、自分自身相当な自信。というより、慢心を起こしていました。しかし、ミンリン・ティチン師の元を離れ、私に襲いかかってきたのは、この慢心を完膚なきまでに叩き壊すという、かつてないほどの苦痛に満ちた修行でした。師が、日本でなければ出来ない修行とほのめかしていたのはこの修行のことでした。
かつてのスーフィーで、シブリーという聖人がおりましたが、彼は自分自身がこの世界でもっとも低いレベルの人間であるということを悟る為に、師から当時もっとも最下層の人間がする硫黄売りを命じられました。自惚れた心を完全に取り除くためでした。何年もかけて、彼の心が、自分こそ、この世界で最も価値の無い人間であると理解した時に、はじめて師は彼が教えを学ぶ事を許可しました。
この話にもあるように、慢心という毒を心から取り除く事は生易しいものではありません。
私自身、このシブリーに倣ったわけではありませんが、10代の頃はインドで、お金も無く、サドゥーと野宿生活数カ月をしたことがあります。髪はボサボサに固まり背中まで伸び、食事も殆ど摂ることなく、体重も50キロをきっていました。しかし、こんな中々誰もが出来ないような体験をしてくると、逆に慢心に侵されます。
そんな自分にこびりついたこの慢心を取り除かなければ一切先には進めないので、神の思し召しによって、最も困難な道を歩まざるおえなかったのです。
人間は辛いことでも、自信があれば、苦しみは軽く感じられます。しかし、この自信というより、慢心を取り除くというのは何にもすがることが出来ないため、その苦しみたるや壮絶です。
私は、この修行を6年間させられました。修行も全て諦め、自分とは一介の価値の無いダメ人間であるという事を激しい苦しみを通して理解し、自分も人生も全てを諦めさせられるところまで徹底的に突き落とされました。死をも考えるような毎日で、己の無価値さを徹底的に悟らさせられました。
しかし、そのお陰で今の私があるのですが、今では人生に無駄なことなどひとつも無いと理解していますから、このある意味で完全に伝統的な型にはまった修行をさせられたことは可笑しくさえあります。
神様や師、全てにまんまとはめられた訳ですから。

絶望的にはなりたくは無いですが、絶望的というのはある意味では、素晴らしい経験です。
そもそも修行とは、己の無を悟る為にあるわけですから、絶望感は普通の私達の意識状態の中で、ある意味最も理想的な状態であるとも言えます。
出来る事なら避けたいところですが、これは全て恵みという恩寵なので、最終的には感謝の念のみになります。
私は、このありがたいみこころに感謝しています。
何故ならば、これが無ければ今の私は無いからです。
[PR]

by mikokoro-org | 2014-08-01 11:38