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護られていること。

大半の護られている者は、
自分が護られている事に気付かない。
何故ならば、
既に護られているから。
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by mikokoro-org | 2013-11-29 00:54

先日、古くからの友人4人と久しぶりに再会した。
山に囲まれた静かな環境に住む、友の家に皆で集まり、庭で火を焚きながら過ごした。
皆、私にとっては30年以上の付き合いである。
まだ若き15歳の懐かしき日々である。
ぽっこわぱ農園、自由の森学園。これら全ての始まりに関わりつつも、それぞれが道を模索し、辿り着いた現在。
私達は昔も今も何も変わっていない。
考えていることも、話す内容も。
人類の希望を探し、本当の意味でのより良い未来を真剣に切望し、それぞれが努力を重ねてきた。
そして、これからも変わることなく、私達はそれぞれの定められた道を歩み続けることだろう。

人生振り返って常々思う。
人生とは人との出会いであると。
人との出会いが新しい扉を開き、道が開かれる。
このひとつひとつの出会いに思いを馳せる度に、みこころを実感させられる。
出会いの全ては必然的である。
出会うべき人と出会い、歩むべき道に導かれる。偶然など何一つとして無い。
奇跡的な出会いを繰り返し続け、十分な経験を積めば誰もが気づくはずである。
勿論、奇跡的な出会いの経験が少なければ、到底到らない結論であるが…。

そして、私は感謝している。これらの出会いという経験を通して、わかるべき事をわからせてくれた全てのものに。
全ては完璧である。
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by mikokoro-org | 2013-11-29 00:29

蕎麦の脱穀

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蕎麦の脱穀。
棒で叩いて、蕎麦の実を取る。
蕎麦は今年初めてなので、たいした量の収穫ではなかった。途中鹿に食べられたりもしたが、なんとか収穫まで辿り着いた。
果たして粉にしたらどれぐらいあるのかは疑問だが、ひとまずは成功かな?

今日は山で鹿狩りが行われており、銃声が響き渡っていた。
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by mikokoro-org | 2013-11-28 00:31

調和という恩寵。

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外で朝のお茶を飲んでいる時、
ふと目の前の多肉植物に目をやると、それは実に美しく、朝の日の光を浴びて輝いていた。
ひとつひとつの葉に力強い力が宿り、生命という力を放っていた。

しばらく、その光景にこころを奪われていると、いつのまにか知覚に変化が訪れてきた。気が付けば、完全なる調和の状態の中にあった。
知覚は高められ、繊細になり、精緻なる観察力が目覚めてくる。
瞬間瞬間が完璧なものとなり、世界の完全性が目の前に明らかになる。

この世界は完璧である。
それは、良し悪しではなく、ただ、完璧なのだ。
完全性が支配し、その中に存在する一切。私達のひとりひとりに至るまで、全ては完璧なこの世界の歯車のひとつである。誰1人欠けてもこの世界は展開しない。私達のひとりひとり。そして、全ての動植物。それら全てが存在の場をこの世界に持っており、それは役割として与えられているものである。

これらは、この調和という恩寵の中で全て明らかとなる。

世界も。そして私達も。
全ては完璧なのだ。
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by mikokoro-org | 2013-11-27 00:18

平和とは
現象世界の状態であり、
この状態をもたらすのは
平安である。

平安とは
精神世界の状態であり、
この状態をもたらすのは
愛である。

源には常に
愛がある。

愛がなければ
自らは破壊され、
愛がなければ
世界も破壊される。

愛があることが
全ての基である。

愛なくして
語るべきこともない。
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by mikokoro-org | 2013-11-20 11:15

私は過去に、沢山の覚者と出会ってきました。
そして、師達から私が感じたものは他ならぬ愛でした。教えの内容が、どうこうではなく、存在そのものが愛でした。

この現象の世界においても、また精神世界においても、私達に必要なものは愛であることに間違いありません。
対象を愛することではなく、その存在そのものが愛であるということです。
私達は、特定の人や、子供、動物などを愛することは出来ます。しかし、覚者の愛は存在そのものが愛以外の何物でもないということです。

愛は語ることが出来ません。これは説明出来ることではないからです。
私達は今まで、あらゆることを頭で理解してきました。この愛でさえ、頭で理解しようとしてしまいます。しかし、愛を頭で理解することはできません。
愛とは全くもって感覚の世界なのです。
感覚の目覚めが起こっていない人々の間では、愛は特定のものに対して、しかも浅いレベルで起こります。
しかし、ひとたび感覚が目覚め意識が解放されると、世界は愛以外の何物でもないということが理解されます。
その状態に意識が到ると、全てを愛として見るようになるので、その存在そのものが愛になってくるわけです。
それこそが、私達が辿り着きたいところであり、知識はなんの役にもたちません。
よって、精神世界を探求したいと思うなら、まず1番に心掛けなければならないことは、己が内に愛を育てることです。
愛そのものになれるように、自分の内側で愛を育てていかなければなりません。
愛を育て愛そのものになることが、私達の到達点です。
自分に対しても、他者に対しても、慈しみと悲れみの心がなければ、何も成就されません。
精神世界は知識を満たすものではありません。そればかりか、知れば知るほどわからなくなります。何故ならば、この世界の理解は知識では無く感覚の理解からしか、結論は生じないからです。
その為の絶対的な前提こそが愛であり、全てのマスター達が教えていることです。
しかし、これとてわからなければわからないことなので、理解は後からしかついて来ません。
しかし、ひとつ言えることは、愛を育むという事は出来るはずです。
世界を愛として見、あらゆるものを愛するということです。
そして、これが根付き、愛が私達を支配するようになってきたとき、私達は目覚め、存在そのものが愛そのものになってくるのです。
これが、目覚めであり、覚者の本質です。
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by mikokoro-org | 2013-11-20 09:56

碧空

とてつもなくクリアーで、抜けるような青空を見上げると、空のグラデーションが実に美しかった。
上空は濃い碧。少しずつ色彩を変えながら、地平線近くでは身体に浸透してくるようなコバルトブルー。
この美しい空を見ているところ、チベットの空を思い出す。青を通り越し、瑠璃色に近い空である。
宇宙に近い所では、宇宙の気配を感じる。
ゾクチェンブルー。

チベットのゾクチェンの修行の中で、この青空を1日中見上げる修行がある。
詳しく語ることは出来ないが、1日中空を凝視していると、瞑想中に目の前に真っ青な空間が現れるのだ。
昼は真っ青な空を見上げ、夜は暗い部屋の中で真っ青な空間を見ている。正に1日中碧の世界である。
この碧の経験を通して、私達は空性の理解に到達する。ゾクチェンブルーである。
ゾクチェンでは、トンパ(空性)とは青空のような。と、描写される。ただ、何もないというわけではなく、鮮やかな碧の体験を伴ったものなのである。
私はこの修行の影響で、今や、あるものを一定の時間見つめていると、夜瞑想している時に必ず、その映像が現れてしまう。例えば、煙や燃えさかるストーブの薪など、それはIMAXのように、圧倒的な映像として目の前に立体的に現れてくる。
これは、網膜が残像を残す現象を上手く利用した瞑想の方法なのだろうが、映像が現れる瞬間に広がる意識の拡大は私達が望む限り、いくらでも経験できる。
こうして目とハートが繋がってくると、ついには自分のハートそのものが持っている碧の空性が、目を通して眼前に立ち現れてくるのだ。
こうして、ゾクチェンパ(ゾクチェンの修行者)は空性の理解を深めて行くのである。
ただでさえ、青空は私達に心の軽やかさを与えてくれる。スッキリと晴れた日は誰でも気分が良い。もちろん気圧の関係もある。晴れるということは、心が軽くなるようにできているのである。
そして、それが何故かと問われれば、それは心と空と空性が同じ性質のものであり、その理解を与える為に全ては仕組まれているから。と、私は答えるだろう。
これらは、悟りのためのある方面からのアプローチであり、私達人類はあらゆる悟りのテクニックを考え出してきた。というより、与えられてきた。
これらの集積が人類の真の進化なき進化であり、私達の成長の礎になっているのだと私は思っている。

ゾクチェンブルー。
その響きを聞くだけで、清澄さにつつまれる。
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by mikokoro-org | 2013-11-15 08:42

ここのところの冷え込みと共に、紅葉は深まり、斜陽は全てを黄金色に染める。
山でのひととき、山を見上げると、そこにはカラマツが見事に色づいていた。山吹色に染まるその美しさは燃え立つ炎のようであり、その美しさは比類のないものであった。

思えば、私は小学生の頃から、当時の担任の教師の勧めで、自然を描写する詩を書き続けてきた。先生は私に学校の原稿用紙を自由に持ち出す許可を与え、私は詩や、物語、戯曲など、書きまくった。
8才の頃から油彩を描き、自然や人間を描写することが好きだった私は、ここで言葉をもってそれを描写することを覚えた。「絹雲」というタイトルの雲を描写した詩は、区の文集に載せられた。
その他にも先生は私の作品を色々なところにエントリーしてくれていた。
そのおかげで、私はこの年まで事あるごとに自然を思うままに書いてきた。詩人ではないから、完璧な詩は書けない。
しかし、何と言っても自然の描写は楽しい。
この秋の美しさを見るにつけ、そのうち、絵も描きたいと思うが、油彩は手間暇かかるので、なかなか、実行には移せない。そのうち…。みこころがあれば…。
と、秋になるといつも思う。
それほどまでに、この秋は美しさは極みなのだ。
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by mikokoro-org | 2013-11-15 00:18

山里の秋

山里は今、実に美しく染まっている。
木々の秋色のグラデーションは、絶妙であり、自然界のみが創造できる美は人の企てのはるか彼方にあり、私達の創造力をはるかに超えている。
午後に畑の片隅に座り、休憩をとっていると、そこにはあの静けさが在った。
はるか、10キロ先の物音まで聞こえてきそうな静謐さである。
音の無い音を聞き、私の思考は完全に静まりかえっていた。
眼前に広がるえもいわれぬ美しい木々の紅葉を見つめ、遠くの沢の音を聞いていた。
沈黙が周りの環境から生まれてくるその経過を、ただ見つめ、その喜びを共有していた。
この季節の美しさは、実に比類なきものである。

この母の贈り物は、人類に絶妙なるバランスをもたらしている。都会での生活が中心になると、この母の恩恵を中々受け取れなくなってしまう。もちろん都会の中にも母の恩恵は満ちている。しかし、人間が五感に頼って生きている生き物である以上、自然の中で受け取れる恩恵には、はるか及ばない。
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by mikokoro-org | 2013-11-04 23:41

あるがままに

あるがままに生きるとは、色即是空、空即是色と般若心経で説かれている教えです。色とはこの世界のことです。そして、空とはこれらが存在しないという意味です。これは、前に書いたタントラ的な表現なのですが、色とは空なり、また空とは色なりという、相対の解決方法です。この世界と空性は相入れません。しかし、強引にこの世界は空であり、かつ空とはこの世界なのである。と、結論付ける訳ですが、この手間のかかる方法で表現することによって、結局、元に戻ってくる。つまり、コインの裏の裏は表である。という表現をしているわけです。
もうひとつ分かりやすく表現すると、禅に十牛図というのがあります。
十牛図では。10枚の絵を通して悟りの段階を教えているのですが、ここにも、同じ表現があります。8枚目に円相が描かれ、全ては空性なりと、表現されます。そして9枚目には花、10枚目には布袋さんが、酒を担いで現世に降りてくるという絵が描かれています。
空性の経験をした後、我々のこころは一輪の花のように自然に還る。そして、この世界に帰ってくるのです。
この一連の描かれている世界観は正にコインの裏の裏は表であるという話であり、わかるべき事はこの世界を離脱し空性を理解し、そして元居た場所に帰ってくるのだ。ということです。
私の師は、この世界は存在するともしないとも言えない。と、言っていました。時間や空間も、私という存在も、全て、無い訳では無い。それは有るとも無いとも言えない。と、私に教えました。後に、その意味を深く知ることになるのですが、これこそがタントラの真骨頂なのです。この世界が有ると言えば、唯物主義になるし、この世界が無いと言えば虚無主義になります。タントラでは、有るとも無いとも言えない。と、表現することで、私達の存在を明確にします。これが悟られて、初めて人はあるがままに生きられるようになるのです。
唯物主義では生きるとは物質に頼って生きる事になり、それは裕福さが幸福の証しとなり、勝者と敗者という格差を生み出します。勿論そこに救いはありません。また、虚無主義では、世界は存在しないという結論に達しながらも無意味な人生を生き続けなければならないという答えのようで答えでない余生を送らなければなりません。
色即是空、空即是色。
このフレーズは一時期流行りましたが、空性を分かっていないのに、色即是空空即是色は勿論あり得ません。
空性を理解したという事が前提になります。そこを理解した上で、空即是色となる事が、あるがままになるということです。
更に、私の理解をもうひとつ付け加えると、これらは、必然性を前提にしなければ、実は成り立ちません。必然性という前提があるからこそ、人はあるがままに生きられるのです。偶然性が前提だと、あるがままに生きると、どこに連れて行かれるかわからなくなります。そんな恐ろしい事はありません。偶然性によって成り立っているなら、死ぬほど努力しなければならなくなり、あるがままには生きられません。必然性を土台とするからこそ、起こる事は必然であり、必然であるが故に騒いでも仕方ない。騒いでも仕方がないなら、あるがままに生きよう。そう捉えることが出来て、はじめて終わりが見えてくるのです。
もちろん、真理の次元においては始まりも終わりもないのですが…。
正確には、始まりも終わりも有るとも無いとも言えない。が、正しい答えでしょう。
その必然性を後ろ盾に、あるがままにくつろぐこと。これほどに安楽なことはありません。
そして、その為にはその経験を積んで行くしかありません。何故ならば、頭で、あるがままだ。と、思っているだけでは、まだ、真のあるがままの状態にたどり着いているわけではないからです。これらは、全て頭の理解の上に成り立っている訳ではありません。
これらは、魂で体得されるものであり、その結論は揺るぎの無いものです。
この境地にたどり着くこと。
それが、私達にとって、真の安らぎとなるのです。
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by mikokoro-org | 2013-11-02 00:25