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マントラヨーガ

マントラヨーガは、あらゆる宗教で実践されている内的能力を開花させる修道方法です。
主に、マントラヨーガでは、数珠を使い、神の御名を唱えるのが一般的です。
インドでは、数珠を右手に持ち、手首から先を布などで覆い、手元を隠して静かに実践します。日本では、真言宗が衣の内側に数珠を隠して実践します。
チベットでは、主に左手で数珠を操りますが、手元を隠すということはせず、人前でおおっぴらに念誦します。イスラム諸国もチベット同様で、老人達は昼日中にチャイハネに座り、チャイを飲み、水パイプでタバコをやりながら、神の御名を唱えています。
これだけ、多くの国で宗教を超えて実践されているこのマントラヨーガですが、これは実習者にとって最も強力な実践方法です。
もちろん目的は神の恩寵を受けることですが、そのメカニズムが凄いのです。
マントラヨーガをしばらく続けていると、(これをインドではジャパといいます)自動的にマントラのリピートが起こるのです。
私が本格的なジャパの修行をしたのは20才の頃でした。それまでも、師から頂いたマントラを唱えてはいたのですが、チベットの修行に入ると、チベット人があまりにも普通にマントラを唱えているのを見て、いつの間にか、私自身も、チベット人の様に、日がな一日数珠を繰って過ごすようになりました。また、その頃の師サキャ・ティチンから、幾つかのイニシエーションを受け、毎日唱えなければならないマントラが増えてしまったこともあり、一日中マントラを唱えながら過ごしていました。毎朝早朝に勤行を行い守護尊のマントラを1万回ずつ唱え、さらに、一日中唱え続けました。きっちり座って集中しながらのジャパは、毎朝の一万回でしたが、これをカウントして、100日あまり続け、100万回に達したころ、ある変化が意識に起こりました。マントラをわざわざ唱えなくても、自動的にマントラが繰り返されるようになったのです。こうなると、マントラを唱える努力をしなくても、一日中マントラが意識下で繰り返されているようになるのです。また、夜寝ている時もそれは繰り返され、ふと目を覚ますと、マントラだけが鳴り響いているのです。時には夜中に真っ暗な部屋の中に本尊が浮かび上がっている幻が出現したり、頻繁に予知夢などを見る様になりました。
こんな毎日を送っていると、前に書いた、意図という意識の持ち方が自然と出来るようになります。
かくして、行者とマントラが一体化してくると、何をしていても、意識は常にそこに置かれるようになります。この状態こそが、恩寵を受け取る準備が出来上がるひとつの方法となります。
私達の意識が進化(実は進化は無いのですが…)するためには聖なる恩寵を必要とします。そして、その恩寵を受けるために必要な事は、恩寵の源が現実とならなければならないということです。恩寵の源が、現実でなければ、恩寵という現実は起こりようがないからです。
そして、その源を現実とするために様々な修行が存在している訳ですが、自己を啓発する目的で行われる修行は、エゴに元ずいているため、その果が得られるには時間がかかります。そのエゴそのものと取り組まなければ、一歩も先に進めないからです。
しかし、この恩寵の源に集中する方法ならば、主体が自分ではなく恩寵の源なので、効果が早いのだと考えられます。
それが、ジャパヨーガの優れたところであり、世界中で実践されている所以だと思います。
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by mikokoro-org | 2013-10-27 00:23

ヴァジュラヤーナ

チベットの仏教は、ヴァジュラヤーナと、言います。
ヴァジュラヤーナとは、日本語にすると、金剛乗となります。
タントラ。密教は様々な呼び方があります。ダイレクトにタントラヤーナと言ったり、マントラヤーナ真言乗と言ったりもしますが、このヴァジュラヤーナというのがポピュラーな呼び方です。
インドでは、教えはグル次第と言った趣がありますが、チベットの仏教は大変システマチックです。しかも、全宗派共通認識的な部分もあるので、大変わかりやすいです。
例えば、インドではシヴァ派、ヴィシュヌ派、一元論派、二元論派で、分かれて論争したりしていますが、チベットでは、教えは統一されており、論争は問答という形式で、修行の一環とされています。
チベットの修行のユニークなところは、瞑想の修行も、密教の観想と禅の空観が、ひとつの修行法の中に組み込まれているところです。
観想をキェーリム(生起次第)、空観をゾクリム(究竟次第)と、呼び習わしますが、このキェーリムとゾクリムや、智慧と方便は、鳥の翼に例えられ、どちらか一方が無くては飛ぶことが出来ないと、表現します。
かくして瞑想もこの両翼が、巧みに取り込まれています。
観想によって人格神をリアライズします。そして終盤で一切を空性に溶け込ませていきます。行者はしばらくこの空性に浸ったのち、再び観想の力を用いて人格神を生起させます。
このプロセスを行うことで、偏りのない、全体を見渡せる境地に辿り着こうとするのです。
私達の脳は普通、一貫性が貫かれていることで納得します。故に、このように、一貫性を欠いたシステムは脳に混乱をもたらします。かつて、私も混乱しましたが、グルは巧みに状況をコントロールしながら、この両方の感性を育ててくれました。そして、一貫性という単なる脳の理解ではなく、両方の感覚を直感的に理解する能力を与えてくれました。この感覚が身につくと、脳の理解はさて置き、その時々に必要な理解すべきことを直感的に把捉することが出来るようになります。そうなると当然の事ながら一貫性は無くなってしまいますが、その状況をわかるようになります。
例えば、出来事には幾つかの捉え方があります。それは、
出来事は起こっていない。
出来事はただ起こっている。
出来事には意味がある。
などですが、これらはそれぞれ、異なった次元からの視点であり、どれが正解か?ではありません。
その時々に、自分にとって必要なものの見方がなんなのか?によるのです。
偏った見方をすれば、その偏りから抜け出せなくなります。
ブッダの無我説も色々な解釈がありますが、一説には、当時インドではアートマン(真我)をめぐって論争が起こっていました。そこでブッダはアナートマン(無我)という説を説きました。
もちろん、文字通りでいけば、アートマンの否定です。真我は無い。と、ブッダは説いたとずっと考えられてきたのですが、最近では他の部分で真我や神を肯定しているニュアンスも確認されてきたことから、ブッダ自身はアートマンを否定したのではなく、アートマンに関して話し合うこと自体が馬鹿げているという意味で、アナートマン説を説いたのではないかとも、考えられています。
たしかにアートマンの把捉というのは、直感的なものですから、脳の理解を遥かに超えています。故に、この件を議論しても答えは見えてきません。わかった者にしかわからない。故に、グダグダ言わずに黙って座ってなさい。ということでしょうか。
いずれにしても、このアートマンにしても、イシュワラ(創造主)にしても、ブッダからすれば、有るとも無いとも言えないと、説いたわけです。有るといえば、脳がそれを固定化してしまうし、無いといっても固定化してしまう。その固定化という脳の働きを超えたところにしか、真理は見えてこない。それよりも、座って修行して直感的な能力を養い、ダイレクトにそれを発見しなさい。というのがブッダが教えてきたことなのだと私は考えています。
私の理解からすれば、この両翼のバランスをとりながら、その瞬間瞬間に、その瞬間にしか存在しない物事の理解を得ることが、今、ここに私達が存在している理由だと考えています。
それはマニュアルなどではなく、その瞬間の生き生きとした叡智であり、輝きであり、美であるからです。
教えとは、体得していくものであって知識ではありません。私達が必要としているのは、自分に偽りのない揺るぎ無き答えです。他人はどうでも良いのです。自分に偽る事無く、自分にとっての答えを見出すことが、自分を救済することです。
その為には経験を積み重ねていくことです。
答えは一朝一夕に出るものではありません。観念に溺れては見つかる答えも見つかりません。ひたすら体得し、直感力を養い、瞬間瞬間に立ち現れてくる答えを紡ぎ出し、人生という壮大なひとつの織物を織っていくことです。
それが人だと、私は思っています。
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by mikokoro-org | 2013-10-25 00:18

意図

私個人の表現で意図というものがあります。
私が使う意図という言葉は、普通使われている意図という言葉とは少し違います。
ここで、この言葉の説明を少ししましょう。
私達が瞑想法などを行う場合、集中をしますが、集中はそれを行っている時、他の事を行うことが出来ません。集中はあくまでも集中であって、対象に注意を向け続けなければなりません。このやり方だと、真理に集中する時間は限られ、多くの時間を無駄にしてしまいます。
そこで、意図をするわけです。
私が言う意図とは、集中することなくして、対象に意識を置いておく方法です。これだと、あらゆる行為を行いながら、かつ意識はそこに留めておくことができます。
もちろん、この意図が行えるようになるには、それまである程度、対象に対する集中が行われなくてはなりませんが、その結果、意図出来るようになると、1日中、そこに意識をおいておけるようになります。
そうなれば、1日24時間修行しているようなものになります。
私達は何を思っているかで、思っているものになります。よって、真理が意図されているならば、私達は容易にそこに近づく事ができるのです。
この意図のやり方を例えると、例えば、あなたが家にひとりで居る時と、誰かと居る時の違いを思い出して下さい。ひとりで居ると、自分のやりたい事に没頭してますが、誰かが居ると、例えその人が何か。例えば静かに本を読んでいたとしても、あなたはその人の気配をずっと感じ続けています。しかし、その気配を感じつつも、あなたは相手を気にせず、行為をします。
この感じです。
あなたが部屋にひとりで居る時に、その気配を感じながら過ごせば良い訳です。
簡単なことですが、集中するわけでもなく、集中しないわけでもなく、というのは難しく感じるかもしれません。
しかし、コツを掴んでしまえば、あなたは1日中それを意識し続けられるようになります。
これが、私の言う意図の方法であり、禅定が行住坐臥になるという事にニュアンス的には近いと思います。
チベットやイスラムなどの国々では、起きている間、絶えず数珠を繰りながら神の御名を唱え続けます。この方法だと、より集中に近くなりますが、このジャパを続けるというのも、意図の感覚を掴むためには有効な手段だと思います。
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by mikokoro-org | 2013-10-22 14:50

ラーマクリシュナの教え

ラーマクリシュナの教えの特徴的なところは、バクティとジュニャーナ、そしてタントラの教えがミックスされていることです。
ほとんどのグルの場合、バクティならバクティ。ジュニャーナならジュニャーナ。ないしは、そのどちらの態度も取らず、その場の状況に応じて臨機応変に対応するのが普通ですが、ラーマクリシュナの場合は、これらの教えがそれぞれ、明確に分かれていながらにして、融合していることです。
本来、ジュニャーナとバクティは水と油のように相交わることがありません。かたや一元論であり、かたや二元論ですから、当然です。
しかし、ラーマクリシュナの場合はこれら交わりようのないふたつの教えをタントラで見事に解決しました。
ジュニャーナは智慧であり父であり、男性原理です。また、バクティは愛であり、母であり女性原理です。
この男性原理と女性原理を合一させることがタントラの教えの目的です。そして、その状態をチベットでは歓喜仏という姿で表現してきました。ヤブユムと言いますが、この男尊と女尊が合体する姿は、タントラはあらゆる相反するものをひとつに結び、その結合から生じた真理はどちらか片方だけでは成立しないという事を私達に教えてくれています。どちらかを否定するのでは無く、その両方が存在することで、全ては成り立っているということが、教えの核心です。タントラは二元論的なアプローチですが、実は、一元論と二元論という対立をも融合させる強力な力があります。
一元論者は一元論を説きますが、それに対して論争をしかけてくる二元論者がいます。ということは、この時点で、一元論は一元論ではなく、二元論になります。なぜならば、相反する教えが相対的に存在しているからです。しかし、その相反する教えが存在しているからこそ、一元論は一元論としてこの世界に存在出来るということも見逃せません。よって、一元論も相対や世界に在る教えであり、それがまた一元論のジレンマです。
そして、そのジレンマを解決してくれるのがまさにタントラなのです。
タントラは謎が多く、誤解を生み続けてきましたが、正にラーマクリシュナがタントラの真の意味を私達に伝えてくれているのだと思います。
そういう意味で、ラーマクリシュナの教えは、インド思想の問題点を解決した画期的な教えであると考えられます。
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by mikokoro-org | 2013-10-19 21:12

30年ぶりに…

今日は、これから友人に会うために都心まで出かけます。
友人と言うか、親方というか^^;
今を遡ること30年前、まだ私が17才だった頃、フランスで庭師の仕事をしていました。過酷だったロンドンでの生活を終え、フランスに渡ったのですが、その時にしばらくこのフィリップの元で庭師の仕事を手伝っていました。毎日朝早くから現場に出掛け、木を切ったり剪定したり芝を刈ったり。フランスの家庭に住み込んで働くという大変貴重な経験をさせてもらいました。また、土曜日の夜になると、フィリップのルノーでパリまで飲みに出掛けたり、ディスコに行ったりと、(私のディスコデビューはパリでした^^;)今となっては良い想い出です。

今年は不可思議な年で、ここ10数年、友人とは全く会ってなかったのですが、10代の頃のとてもディープな友人達と再会すべくして再会しています。
私はこの経験を通して、世界というのは実に不可思議な縁で回っているというのを現実的に再確認しています。
完璧なるプログラムです。

ということで、また報告します。
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by mikokoro-org | 2013-10-17 15:33

台風とリト

台風ですね。
ちょっと畑の作物が心配ですが…。

リトリートは天気にも恵まれ無事終了しました。今回も楽しく、充実した時間を高地で過ごすことができました。
私は、修行時代は高地で過ごした時間が長かったものですから、年に数回、こうして高地で過ごすと細胞が蘇るようです。
また半年後ですが、今から楽しみです。
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by mikokoro-org | 2013-10-16 00:21

超越的な理解

頭の理解は、あくまでも頭の理解であって、それは真に理解していることとは違う。
真の理解とは頭ではなく、輝きである。
直感的な。もしくは飛んで来るような、スパークするような。もしくは…。
言葉がない。
それを指し示す良い言葉がない。
何故ならば、それは未知なる体験だからである。
本などから学ぶこととは違う。

その経験は一切の形象を超えている。
空っぽだ。とか、無だとか考えるのとも違う。
そこでは言葉は在ったり無かったりである。そんな事とは関係なく、超越的な感覚は私達の意識に飛び込んでくる。
そして意識の内側から一切の認識を綺麗さっぱりと変えてしまう。
悟りとか、覚醒とかいう言葉はあくまでも言葉であり、その状態を説明する為の言葉である。しかし、これとて、言葉となった以上、空虚である。
それは、それら一切の言葉の彼方にあり、説明不可能なものである。

もし、このようなインスピレーションを経験したくば、過去に存在する、どのような修行も効果がある。勿論、マーヤは含んでいる。
しかし、感覚を磨く為に必要な事はどんな方法であれ、効果はあるはずである。
何故ならば、修行とは、そのために編み出されたものであり、私達人類はそれを経験するために、莫大な努力と経験を積み重ねてきたからだ。
それはかくも必然的なことであり、人類とってかけがえのない財産なのだ。
これを正しく使うことが出来れば、私達は有益な結果を得る事ができるであろう。
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by mikokoro-org | 2013-10-08 22:23

それ。

それを経験した事の無いものに
それを理解することは出来ない。

あなたがそれと思っているもの。
ないし、神と思っているもの。

それは、
それではない。

それは完全に頭の理解を超えたところにあるものである。
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by mikokoro-org | 2013-10-05 12:22

告知

今月から、埼玉の勉強会はルーミー語録をやっていこうと考えています。
ルーミーはトルコの偉大なるスーフィーで、愛の道を歩んだ人です。
ルーミーの教えは至る所に愛が溢れており、現代を生きる私達に何かを気付かせてくれると思います。
お楽しみに‼︎
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by mikokoro-org | 2013-10-03 17:47