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汝の主

今日は先日受けた質問から。
「先生の解答は時にアドヴァイタ的であったり、ドヴァイタ的であったりしますが、どう捉えたらよいですか?」
というものです。
面白い質問ですね。皆さん混乱してしまっているみたいです。

さて、では実際の所はどうなんでしょうか?
基本的には、私はどちらとも言えません。私にあるのは実在。私的には神様という言葉ですが、皆さんが捉えている神様と、私が捉えている神様は必ずしも一致するとは限らないので、普段は神様という表現は控えめにしてはいますが、私にとっては、それは神様です。
そして、私にはその神様への畏敬の念あるのみです。その絶大なる愛、力、そして、その叡智の前では愛する事あるのみです。
アドヴァイタとか、ドヴァイタとかは言葉であり、概念です。私達の脳はなるべく認識に一貫性を持たせようとします。でなければ納得出来ないからです。故に、どちらかひとつを選びたがるのですが、実際、アドヴァイタにしてもドヴァイタにしても仏教にしてもヒンドゥー教にしても、それらは人の脳の認識であり、それはさして重要な事ではありません。
大事なのは、私自身がどう答えを認識するかです。
少なくとも私にとって、それらのタイトルはどうでも良いのです。
ですから、私の場合は質問してくる方や、その場にいる方に合わせて言葉が勝手に出るに任せています。そうすると、時にアドヴァイタ的になり、時にドヴァイタ的になるのです。それはその瞬間、そこで必要なことが起こっているだけなのです。私は全てをただ、私の主に任せているだけです。
私にあるのは、私達が抗う事の出来ない、大いなる者への畏敬と、全託のみです。
これが私の在り方であり、私が教えられた全てです。
ですので、皆さんは私の話を聞く時に、そのように理解してもらうと混乱しなくて良いかもしれません。

最後に、私が大好きなイエスの言葉があります。それは、

ー汝の力の限り
汝の主を愛せよー
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by mikokoro-org | 2013-09-27 00:16

ドヴァイタとアドヴァイタ

人を救う気のある人は
ドヴァイタとなり、
人を救う気のない人は
アドヴァイタとなる。

何故ならば、本来救うべき人間など存在しないからだ。

しかし…。
このしかし、が、ドヴァイタを生む。
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by mikokoro-org | 2013-09-25 12:05

自由

私達は自由を生きており、私達を束縛するものは何も無い。
しかし、私達は気がつくと自由を奪われ、束縛された毎日を経験する。
では、いったい何が私達の自由を奪うのか?
それはマーヤである。
マーヤは、誤った認識を私達に植え付け、私達を自由から遠ざけてしまう。
本来は自由であるにもかかわらず、勝手に自滅してしまうのである。
例を挙げると、不自由な都会の生活が嫌で田舎で暮らせども、自由である事にこだわり過ぎれば、田舎にいても不自由になって行く。
自由であろうとすればするほど。こだわればこだわるほど、私達は不自由になって行く。
真の自由とは、マーヤから自由である事である。
マーヤが無ければ、私達は一切の束縛から自由になる事ができるのだ。
あらゆる思い。思い込が私達の自由を奪う。
思考が悪いわけでは無い。
思考を無くせば良いわけでは無い。
思考に支配され、思考の奴隷になっていることが問題なのだ。
よって、思考に支配されるのではなく、思考を支配し、あらゆるマーヤを取り除くことに成功するならば、思考はあるがままの状態におかれ、私達は真の自由の状態にくつろぐことができる。
あなたが、これ。と、思っている。これが、これではなく、それであることを知れば良いのである。
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by mikokoro-org | 2013-09-21 21:47

正解

私達が正しいと信じている事。それが必ずしも正しいとは限らない。
しかし、ひとは自らが考えていることは正しいと信じている。
この世界に、正解は無い。
しかし、あなたにとっての正解はある。だが、この私にとっての正解が世界にとっての正解であると誤認してしまうことが厄介な頭脳の仕組みなのである。
そして、私にとっての正解と、世界にとっての正解を一致させようとすれば、そこに葛藤が起こり、私達はいともたやすく自己否定へと向かう。
私達が探し求めなければならないのは自己にとっての正解である。
あなたが存在し、その存在が自分にとっては全てであり、その自分を通してしか世界を経験していない。ということを理解しなけらばならない。
世界の中心が、あなたではないにしても、あなたにとっての世界の中心はあなたであるということには違いないのだ。
あなた以外にあなたを生きるものはいないのだから。
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by mikokoro-org | 2013-09-21 21:09

思想

思想は思考が作り出す生きる希望であり、命綱である。
時に覚者は思想を語る。
しかし、彼らにとって実は思想はどうでも良い。どうでも良いとわかっていながら、思想を説く。
弟子をわからせようとする以上、教えは思想のようになってしまう。しかし、彼らは実はどうでも良いと思っている。何故ならば、彼らにとって思想という思考はもはや命綱ではないし、なんら希望も必要としていないからだ。
彼らには、実在と存在しかないのだ。

しかし、未だ希望を必要とするものにとって、思想は重大だ。自分を定義するアイデンティティが必要なのだ。
だが、思想が存在する限り人類は分断し、敵味方に別れることを避けることは出来ない。よって、人類は争い続けることになる。
誰もが、自分達が考える思想によって人類は救われ、平和が訪れると信じている。
その思想どうしがぶつかり合い、結局の所、争いが起こるのである。
そんな事が歴史上で、何千年と続き、
それは今だに続いている。しかし、仕方が無い。自分を確立する為に無くてはならない思考なのだから。

そして、我々がそれを超越する為には、この覚者達がくつろいでいるどうでも良い境地にたどり着かなければならない。
そこには、思想は無く、あるのは唯、微笑みだけである。
何故ならば、人は思想無く無垢になれたなら、慈しむ心しか存在しないからである。
こうして私達は愛になってゆき、平和が訪れるのだ。
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by mikokoro-org | 2013-09-19 00:24

瞑想

チェーンソーでの作業の合間に一休み。
台風が去り、驚くほど涼しくなったとは言え、日向での作業は相変わらず暑い。
木陰に腰を下ろし、ふと目をやると、そこに秋の日差しが差し込んでいる。
斜めに傾いた陽の光は杉木立を縫う様にして、その光を大地に注いでいた。それは驚くほどクリアーで、秋の草花をひときわ美しく際立たせ、その存在を輝かせていた。
機械が止まりその騒音が止むと、必然的な瞑想が起こり、静寂が広がりはじめる。
あらゆる思考が在るべき場所に帰って行き、頭の中にまで静けさが浸透してくる。
瞑想とはこの様に起こるものである。
そこにはなんら意図は無く、修行とかけ離れたところに在り、自動的であり、一切の作為を超えている。
そこにはただ瞑想があり、自分と他の隔たりは無く、唯、平安と幸福のみが在る。
全ては、実に完璧である。

そして私は毎年思う。
この秋の輝きはいったい何なのだろう?と。
あらゆる季節にあらゆる美しさはあるものの、この秋の美しさは比類の無いものである。
日照時間が減り、鬱っぽくなり易いこの季節に、ふと自然に目をやればそこは美の宝庫である。
人々が、都会の暮らしではなく、自然と共に暮らしていた時代、彼らには現代に蔓延している秋の鬱は無かったのだろう。何故ならば、そこには一年を通して待ちわびた美を見る事が出来るのだから。
そうやって、本来人間というものは、バランスをとっているものなのだ。あの脳天気なまでの夏のさかりが終焉し、冬に向かう季節。落ち込んで当然である。しかし自然は、そんな私達に素晴らしい美というギフトを与えてくれているのである。
ぜひ、野山に出掛けてこの日差しと戯れてもらいたい。
この自然の贈り物を受け取ることができたなら、私達の心は正しく冬に向けて修正されるのだから。
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by mikokoro-org | 2013-09-19 00:20

畏敬

我々にとって重要な事は
探求である。
何故ならば、
我々が経験しなければならないことは
畏敬だからである。
これは神を信じる。
とか、困った時の神頼み的なものでは無い。
これらは、人の脳が創り出すものであり、思考である。
しかしながら、未だその経験能わざる者には信じることは大切である。
だが、真の経験とは、真に偉大なるものと遭遇し、畏敬を全身全霊で受け取ってしまうことである。
これは拒否することすら出来ない。
否応無く、畏敬は私達の心と思考を支配し、圧倒的な力によってそれを受け入れさせてしまう。
そして、その畏敬の念は、
私達を救済する。
あらゆる困難。
あらゆる苦しみ。
あらゆる混乱と迷いを払拭するのである。

人生が必然的であることを嫌う人達がいる。
それは可能性への期待である。
何故ならば必然的であることほど希望の無いことは無いからである。
しかし、それは未だ畏敬を経験したことが無いことによって生じる思考の混線である。
だが、ひとたびこの畏敬を経験したならば、人生が必然的であろうとも、偶然の産物であろうとも、どうでもよくなる。それどころか、必然的であることの方が畏敬に寄り添っていると感じる。

ここで、はっきりと言えることは、この畏敬を経験した時、私達の人生は一変してしまうのである。
それは強烈なる一撃である。
そして、その一撃の為には、探求が必要である。
それは宇宙の経験かもしれない。
それは自然の経験かもしれない。
それは宗教の経験かもしれない。
なんの経験であっても良い。
それどころか、どこから来るかはわからない。
どちらにせよ、探求するものにそれは来る。
私達が、求めて止まない答えがである。

その畏敬の念こそが、私達が求めている経験であり、救済なのだ。
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by mikokoro-org | 2013-09-17 00:38

秋の始まり。

夕刻、外で寛いでいると調和が訪れてきた。
ひぐらしはもういないが、代わって沢山の秋の虫が、そこかしこで鳴いている。
夏の頃より、さらに静けさは深まり、早い日没と共に長い夜がすでに始まっている。
私はこの季節が堪らなく好きである。
夏の終わりと言うと、どこか悲しげで、寂しさを感じるが、秋の始まりと言うと、深く自己の内に潜り込む、瞑想的で透明感溢れる季節の始まりである。
これから冬に向って、朝も夕も日差しは傾き、その黄金色の美しい輝きが窓から差し込み、美しい記憶を蘇らせる。
そして、偉大なる母の創造とその美しさにしばし、我を忘れる。
世界は美に満ちている。
これを見損なっては、何の為にここにいるのかを忘れてしまう。
私達はここに存在するべくして存在しているのだ。
大切なのは机上の空論では無い。
私達が存在する事の真の意味を理解し、この美を味わう事が無ければ、私達は道を見失い、人生の無意味さを感じてしまう事だろう。
喜びは、其処彼処に溢れている。何故ならば喜びの核心は自己の存在だからである。
私達の心が喜びを経験しているならば、世界は輝き、美と共に在り続ける。
しかし、私達の心が喜びを失っていれば、その美は消えてなくなる。
世界が心の反映とはそういう意味である。

故に、心を常に喜びで溢れさせておこう。己を無知と苦しみに落ち込ませるマーヤを取り除き、常に輝ける実在と共にあろう。
私達は皆、存在を許されているのだから。
私達は皆、存在するべくして存在しているのだから。
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by mikokoro-org | 2013-09-13 00:12

平和

平和とは争いの無い事である。
よって、平和の為に戦うという言葉は矛盾であり、戦いによって平和を得ることは無い。今までの歴史でも、多くの者が、平和の為と言って戦ってきたが、その結果平和が訪れたことは唯の一度も無い。
戦いは戦いを生むだけであり、そこに平安なる人の心は存在しない。
故に、もし真に平和を望むなら、それは争乱の無いところから始まる。
平和とは、書いて字のごとく己の心が平らかなる者達が和するという意味である。これは、平和を求める者という意味ではない。己の心が平らかなる境地に達した者という意味である。その境地に達した者達が和する時、平和が起こるのである。これは、平和を企てる事とは違う。平和を企てるという言葉には、和平という別の言葉が存在している。和平とは企てであり、平和への願いである。
しかし、平和とはそれらの意図を完全に超えている。平和とは状態であり、それは起こるものである。
どうすればそれが起こるのかというと、それは先に述べたように、平らかなる境地に達する事である。
よって、もし、平和を願うなら、戦ってはならない。己の心を安らかなる状態に保ち、己が内に平和を確立するのだ。
さすれば己が内に安らぎと平和が満ち、愛が溢れ、そしてその愛は他者をも包みこんでいくことだろう。さらにはその愛が和合を生み、世界は統一されていくことだろう。
それが平和という事であり、今までの様に戦い続けるならば、私達に平和が訪れる事は永遠に無いであろう。

外で起こっている事に向うのでは無く、己の内に向うべし。
そして、己の内に平安を見いだすべし。
これが平和の究極の在り方であるが故に。
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by mikokoro-org | 2013-09-11 00:36

かつて私が恐れ多くもミンリンティチンに謁見した時、質問は?と聞かれ、私は如此質問しました。
「私達はゾクチェンやマハームドラーなど、書物によって、その教えをうかがい知る事は出来ますが、やはりそれを経験しなければそれを知ることは出来ません」と。
すると、師はニンマリと笑うと、いきなり、「お前の心はどこにあるのだ?」と、聞き返してきました。
「それが知りたいのです。どのようにそれを知ることが出来るのでしょうか?」
「では、今日より自分の心を探しなさい。どこにあるのか?どんな形をしているのか?色はあるのか?なんでも良いから、心を探し続けなさい。瞑想をしてはいけない。歩きながら、また何かをしながら。ひたすら探し続けるのだ。そして一週間後にまたやって来なさい」これが返答でした。
それから一週間。私は、そこら辺を歩きながら、心を探し続けました。瞑想してはいけないと言われていたので、ひたすら歩き続けました。
そして一週間が経ち、再び師の前に座りました。
「どうだ?心は見つかったか?」
「いいえ。見つかりませんでした。それは在りませんでした」
すると、師は嬉しそうに笑うと、「それが答えだ!」そう言いながら眼を大きく見開きました。
「心は存在しない。心が無い。という事を悟るのがゾクチェンなのだ!そして、お前は既にこのゾクチェンという教えの中にいるのだ!」
図らずも、私は既にその教えの中にあり、この日、この瞬間からゾクチェンの教えの伝授が始まったのでした。
それから三年の間。私は毎日のように師の部屋を訪れ、教えを伝授して頂きました。私にとってはかけがえの無い体験でした。
インドでの求道が始まってから、9年目。チベット仏教に帰依してから6年目の出来事でした。昔から師は9年目に見つかると、チベットでは言われています。ですので正に、9年経って師と巡り合った瞬間なのでした。
今ではチベット仏教からは遠ざかっていますが、私が師を忘れた日は一日とてありませんし、その恩寵は今も私の中で生き続けています。
私が26歳の猛暑の春の出来事です。
インドの4月^^;
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by mikokoro-org | 2013-09-09 01:09