ヴァジュラヤーナ
チベットの仏教は、ヴァジュラヤーナと、言います。
ヴァジュラヤーナとは、日本語にすると、金剛乗となります。
タントラ。密教は様々な呼び方があります。ダイレクトにタントラヤーナと言ったり、マントラヤーナ真言乗と言ったりもしますが、このヴァジュラヤーナというのがポピュラーな呼び方です。
インドでは、教えはグル次第と言った趣がありますが、チベットの仏教は大変システマチックです。しかも、全宗派共通認識的な部分もあるので、大変わかりやすいです。
例えば、インドではシヴァ派、ヴィシュヌ派、一元論派、二元論派で、分かれて論争したりしていますが、チベットでは、教えは統一されており、論争は問答という形式で、修行の一環とされています。
チベットの修行のユニークなところは、瞑想の修行も、密教の観想と禅の空観が、ひとつの修行法の中に組み込まれているところです。
観想をキェーリム(生起次第)、空観をゾクリム(究竟次第)と、呼び習わしますが、このキェーリムとゾクリムや、智慧と方便は、鳥の翼に例えられ、どちらか一方が無くては飛ぶことが出来ないと、表現します。
かくして瞑想もこの両翼が、巧みに取り込まれています。
観想によって人格神をリアライズします。そして終盤で一切を空性に溶け込ませていきます。行者はしばらくこの空性に浸ったのち、再び観想の力を用いて人格神を生起させます。
このプロセスを行うことで、偏りのない、全体を見渡せる境地に辿り着こうとするのです。
私達の脳は普通、一貫性が貫かれていることで納得します。故に、このように、一貫性を欠いたシステムは脳に混乱をもたらします。かつて、私も混乱しましたが、グルは巧みに状況をコントロールしながら、この両方の感性を育ててくれました。そして、一貫性という単なる脳の理解ではなく、両方の感覚を直感的に理解する能力を与えてくれました。この感覚が身につくと、脳の理解はさて置き、その時々に必要な理解すべきことを直感的に把捉することが出来るようになります。そうなると当然の事ながら一貫性は無くなってしまいますが、その状況をわかるようになります。
例えば、出来事には幾つかの捉え方があります。それは、
出来事は起こっていない。
出来事はただ起こっている。
出来事には意味がある。
などですが、これらはそれぞれ、異なった次元からの視点であり、どれが正解か?ではありません。
その時々に、自分にとって必要なものの見方がなんなのか?によるのです。
偏った見方をすれば、その偏りから抜け出せなくなります。
ブッダの無我説も色々な解釈がありますが、一説には、当時インドではアートマン(真我)をめぐって論争が起こっていました。そこでブッダはアナートマン(無我)という説を説きました。
もちろん、文字通りでいけば、アートマンの否定です。真我は無い。と、ブッダは説いたとずっと考えられてきたのですが、最近では他の部分で真我や神を肯定しているニュアンスも確認されてきたことから、ブッダ自身はアートマンを否定したのではなく、アートマンに関して話し合うこと自体が馬鹿げているという意味で、アナートマン説を説いたのではないかとも、考えられています。
たしかにアートマンの把捉というのは、直感的なものですから、脳の理解を遥かに超えています。故に、この件を議論しても答えは見えてきません。わかった者にしかわからない。故に、グダグダ言わずに黙って座ってなさい。ということでしょうか。
いずれにしても、このアートマンにしても、イシュワラ(創造主)にしても、ブッダからすれば、有るとも無いとも言えないと、説いたわけです。有るといえば、脳がそれを固定化してしまうし、無いといっても固定化してしまう。その固定化という脳の働きを超えたところにしか、真理は見えてこない。それよりも、座って修行して直感的な能力を養い、ダイレクトにそれを発見しなさい。というのがブッダが教えてきたことなのだと私は考えています。
私の理解からすれば、この両翼のバランスをとりながら、その瞬間瞬間に、その瞬間にしか存在しない物事の理解を得ることが、今、ここに私達が存在している理由だと考えています。
それはマニュアルなどではなく、その瞬間の生き生きとした叡智であり、輝きであり、美であるからです。
教えとは、体得していくものであって知識ではありません。私達が必要としているのは、自分に偽りのない揺るぎ無き答えです。他人はどうでも良いのです。自分に偽る事無く、自分にとっての答えを見出すことが、自分を救済することです。
その為には経験を積み重ねていくことです。
答えは一朝一夕に出るものではありません。観念に溺れては見つかる答えも見つかりません。ひたすら体得し、直感力を養い、瞬間瞬間に立ち現れてくる答えを紡ぎ出し、人生という壮大なひとつの織物を織っていくことです。
それが人だと、私は思っています。
ヴァジュラヤーナとは、日本語にすると、金剛乗となります。
タントラ。密教は様々な呼び方があります。ダイレクトにタントラヤーナと言ったり、マントラヤーナ真言乗と言ったりもしますが、このヴァジュラヤーナというのがポピュラーな呼び方です。
インドでは、教えはグル次第と言った趣がありますが、チベットの仏教は大変システマチックです。しかも、全宗派共通認識的な部分もあるので、大変わかりやすいです。
例えば、インドではシヴァ派、ヴィシュヌ派、一元論派、二元論派で、分かれて論争したりしていますが、チベットでは、教えは統一されており、論争は問答という形式で、修行の一環とされています。
チベットの修行のユニークなところは、瞑想の修行も、密教の観想と禅の空観が、ひとつの修行法の中に組み込まれているところです。
観想をキェーリム(生起次第)、空観をゾクリム(究竟次第)と、呼び習わしますが、このキェーリムとゾクリムや、智慧と方便は、鳥の翼に例えられ、どちらか一方が無くては飛ぶことが出来ないと、表現します。
かくして瞑想もこの両翼が、巧みに取り込まれています。
観想によって人格神をリアライズします。そして終盤で一切を空性に溶け込ませていきます。行者はしばらくこの空性に浸ったのち、再び観想の力を用いて人格神を生起させます。
このプロセスを行うことで、偏りのない、全体を見渡せる境地に辿り着こうとするのです。
私達の脳は普通、一貫性が貫かれていることで納得します。故に、このように、一貫性を欠いたシステムは脳に混乱をもたらします。かつて、私も混乱しましたが、グルは巧みに状況をコントロールしながら、この両方の感性を育ててくれました。そして、一貫性という単なる脳の理解ではなく、両方の感覚を直感的に理解する能力を与えてくれました。この感覚が身につくと、脳の理解はさて置き、その時々に必要な理解すべきことを直感的に把捉することが出来るようになります。そうなると当然の事ながら一貫性は無くなってしまいますが、その状況をわかるようになります。
例えば、出来事には幾つかの捉え方があります。それは、
出来事は起こっていない。
出来事はただ起こっている。
出来事には意味がある。
などですが、これらはそれぞれ、異なった次元からの視点であり、どれが正解か?ではありません。
その時々に、自分にとって必要なものの見方がなんなのか?によるのです。
偏った見方をすれば、その偏りから抜け出せなくなります。
ブッダの無我説も色々な解釈がありますが、一説には、当時インドではアートマン(真我)をめぐって論争が起こっていました。そこでブッダはアナートマン(無我)という説を説きました。
もちろん、文字通りでいけば、アートマンの否定です。真我は無い。と、ブッダは説いたとずっと考えられてきたのですが、最近では他の部分で真我や神を肯定しているニュアンスも確認されてきたことから、ブッダ自身はアートマンを否定したのではなく、アートマンに関して話し合うこと自体が馬鹿げているという意味で、アナートマン説を説いたのではないかとも、考えられています。
たしかにアートマンの把捉というのは、直感的なものですから、脳の理解を遥かに超えています。故に、この件を議論しても答えは見えてきません。わかった者にしかわからない。故に、グダグダ言わずに黙って座ってなさい。ということでしょうか。
いずれにしても、このアートマンにしても、イシュワラ(創造主)にしても、ブッダからすれば、有るとも無いとも言えないと、説いたわけです。有るといえば、脳がそれを固定化してしまうし、無いといっても固定化してしまう。その固定化という脳の働きを超えたところにしか、真理は見えてこない。それよりも、座って修行して直感的な能力を養い、ダイレクトにそれを発見しなさい。というのがブッダが教えてきたことなのだと私は考えています。
私の理解からすれば、この両翼のバランスをとりながら、その瞬間瞬間に、その瞬間にしか存在しない物事の理解を得ることが、今、ここに私達が存在している理由だと考えています。
それはマニュアルなどではなく、その瞬間の生き生きとした叡智であり、輝きであり、美であるからです。
教えとは、体得していくものであって知識ではありません。私達が必要としているのは、自分に偽りのない揺るぎ無き答えです。他人はどうでも良いのです。自分に偽る事無く、自分にとっての答えを見出すことが、自分を救済することです。
その為には経験を積み重ねていくことです。
答えは一朝一夕に出るものではありません。観念に溺れては見つかる答えも見つかりません。ひたすら体得し、直感力を養い、瞬間瞬間に立ち現れてくる答えを紡ぎ出し、人生という壮大なひとつの織物を織っていくことです。
それが人だと、私は思っています。
by mikokoro-org | 2013-10-25 00:18