歯車は隣の歯車の事は知っていても、
そのまた隣の歯車の事を知る事はない。
歯車にとって知り得るのは
自分と関わっている歯車だけだ。
同じように我々が知り得るのは
我々と関わる人間の事だけだ。
歯車は隣の隣が誰だか知らない。
我々も知り合いの知り合いを知らない。
しかし、それらは全て関連しており、
共に自らの為すべきことを行なっている。
そして、全歯車の活動が
大きな機械を動かすように、
我々も全人類で宇宙を動かしている。
役割の無い人間などただの一人もおらず、
全ては完璧に計画通りに展開しているのだ。
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by mikokoro-org
| 2019-08-12 10:14
我々が想像するどの様な神のイメージも
それは程遠く、それに至ることは無い。
我々が思い描く神とは
我々の希望や願いの拠り所であり
自己の投影に他ならない。
しかし、それはあくまでも
我々の思考の産物であり
的を得ていない。
神とは、この宇宙の仕組みの
源であり存在である。
それは偏在し時を超越している。
それは人によって体験されるものであり
考えたり想像できるものでは無い。
それは知られるものである。
善悪を超越し
我々の思考とは全く関係がない所にある。
我々が人として機能し続ける限り
それに手が届くことは無い。
よって、人であることにこだわらない事。
宇宙の一部
もしくは自然の一部であることにつとめよ。
我々が普段重要だと考えている無駄な事を
放棄すれば良い。
あるがままになるとはそういうことだ。
そうすれば神の事を理解し始める事ができる。
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by mikokoro-org
| 2018-09-28 00:22
善と悪を見る者には
善と悪が存在する。
善と悪を超越する者には
善と悪はもはや存在しない。
しかるに善と悪を知らなければ
善と悪を超越する事は能わず。
細部を知る者こそが
全てを知る者である。
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by mikokoro-org
| 2018-08-13 23:26
吉凶という考えから
人は魔境に堕ちる。
実際には正しい事も
間違った事も存在していない。
全ては唯起こっているのだ。
そこに思考を差し挟まなければ
全ては唯起こる。
しかし、そこに思考を差し挟むと
魔境に堕ちる。
全てはあるがままであり
絶対真理が支配している。
私達の過ちは
過ちだと考える事なのだ。
全ては完璧である。
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by mikokoro-org
| 2018-08-01 00:58
究極の慈悲を成し遂げる為には
智恵を必要とする。
究極の慈悲とは悪をも愛する行為だ。
それには愛する行為を通して愛する事は難しい。
しかし、智恵をもって愛する事は可能だ。
愛するのではなく愛する事を知るのだ。
愛に、この智恵のエッセンスを加えるならば
全てを愛する事が可能になる。
これをもって慈悲は完成する。
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by mikokoro-org
| 2018-07-17 08:40